見出し画像

The Digital Devil Story        第三巻 転生の終焉            第三章 混迷の首都

  1

 十月八日。

 血糊のついた六つの札束が、みすぼらしいアパートの床の上に、ドサリと投げ出された。

「結構持ってやがったな、あの銀行員」

 頬の傷を撫でながら、北園が呟く。

 室町はおもむろに札束に腕を伸ばすと、二つを北園に、一つを村井の膝に放り投げて、残りを自分のジャンパーのポケットにねじこんだ。

「……」

 村井は黙ってうつむいたまま、手を出そうともしない。

「おまえは人を殺ったわけでもねえ。車を転がしただけで、それだけの分け前をやろうってんだから、ありがたいと思いな」

 室町は、村井の膝から札束を取りあげて、それを鼻先に突きつける。

「そ、そんなんじゃないよ。俺はただ、もうヤバイことはこれっきりにしようと……」

 後ずさりしながら気弱なセリフを吐く村井は、額に冷や汗すら浮かべている。

 室町と北園は、ニヤリと笑みを交わした。

(血を見たい……もっとたくさんの血を見たい……。)

 体内に潜むラルヴァの囁きが、二人の頭蓋を共鳴させる。

「一人や二人じゃ、物足りないってか」

 ついさっき、川崎市内で殺害した銀行員のことを思い出したのか、室町の目が妖しく輝く。

「捕まりゃ確実に死刑。ま、慎重にいこうぜ」

 北園は、自嘲するようにうそぶいた。だが、彼の目は冷静であった。

「次のターゲットは渋谷だ。俺はあのちゃらちゃらした街が、大きらいなんだ」

 室町が言った。

「都内は警戒が厳重すぎる。手っとり早く、横浜市の郊外で、駅に近い場所にあるサラ金をやっちまおう」

「俺はもう金なんかいらねえ。いかにも幸せですって面下げてる奴らを、ぶっ殺してやりたいだけさ」

 室町は、悦子のことを思い出したのだろう。高ぶる気持ちを抑えかねたように、彼の顔にはおぞましい黒斑が浮き出しはじめていた。


  2

 同じ頃。

 新宿中央公園から甲州街道にかけて、10万人を超える人が、すべての街路を埋めつくしていた。

 セイレーンは、高層ビル街と新宿中央公園にはさまれた空き地のステージから、人々に向かって歌っていた。

 セイレーン教団は、これをミサと呼んでいる。人々がどこまでミサの意味を理解しているかはわからないが、彼女の声に聞きほれて、咳をする者さえいない。

 群衆だけではない。警備のために集まった自衛官たちも、自分たちの役割を忘れたかのように、恍惚とした表情を浮かべて、セイレーンの歌に聞き入っている。

 発足以来わずか一週間の教団が、これだけの人を集めることができたのは、もちろんセイレーンの歌の力である。

 だが一方で、新宿という街の現在の状況が、教団の爆発的な発展に大きく寄与していたのは事実である。

 昼間人口の半分以上をセトによる大破壊で失ったこの街の経済は、まさに破綻寸前であった。五千をこえる飲食店は破産し、地価は暴落し、そしてこの街にできる予定だった東京都庁の建設は、無期限に延期された。

 そこに登場したセイレーンは、驚異的な歌の力で、信じられないほどの人を集めるようになった。新宿に利害関係を持つすべての者にとって、セイレーンは神のような存在になっていた。


 午後七時三十分。

 外出禁止令施行三十分前を知らせるサイレンの音が、夜のビル街に木霊する。

 自衛隊員が空に向かって放つ空砲が、ミサという名のコンサート終了の合図を告げた。

 ミサが終わって、帰宅するために秩序を守って新宿駅に向かう群集を背に、セイレーンと教団の幹部達は、数日前に本部を設けたプリンストンホテルのある南口に向かった。

 ホテルの十三階に設置された事務室では、猿渡がスタッフとともに、すごい勢いで膨張を続ける教団を組織面でフォローしている。

「疲れたぜェ」

 ノックもせずに、ずかずかと部屋に踏み入ってきた大野木は、ソファーに身体を投げ出し、ひじ掛けに足を乗せた。そしてタバコに火をつけた。

 続いて部屋に入ってきた田代は、大野木の泥だらけの靴を不快そうに見ると、猿渡の操作するPCの後ろに立った。

「入信者の増え方は、どんなぐあいだ?」

「今日のお昼までに二十万人を超えました。午後の集計はまだ終わっていません……」

 忙しすぎて、ミサにも出席できずに集計作業を続けていた猿渡は、充血した目をディスプレイから上げると、部屋の隅に山のように積みあげられた入団申込書を指さした。

「金は、どのくらい集まってんだ?」

 ソファーから身を起こした大野木が、タバコをくわえたまま田代の横に立った。

「寄付金と会費で、六億円ってとこかな」

 猿渡は厭な顔も見せずに、経理データを呼び出して見せる。

「一生遊んで暮らせるな」

 大野木は、下品な笑い声をあげる。入団したばかりの事務員が、大野木を盗み見て眉をひそめたとき、涼やかな風とともに、白鳩を肩にとまらせたセイレーンが部屋に入ってきた。

 大野木は、あわててタバコをもみ消し、猿渡も、そそくさとオペレーションに戻る。

 が、セイレーンの眼差しにどこか今までと違うところがあるのを感じとった田代は、

「どうかされましたか?」

 と、丁寧に尋ねた。

「最近の悪魔の非道な行いは、目にあまるものがあります。明日から私は悪魔を懲らしめるために、都内を巡回したいと思います」

 人形のように表情を変えずに、セイレーンは思いがけない言葉を口にした。

「おもしろそうじゃないスか」

 その結果、何が起こるかを考えもせず、すぐに賛成する大野木に舌打ちして、田代は正面からセイレーンに向きあった。

「お待ち下さい。実のところ、我々はセイントの歌が本当に悪魔を退けるのに有効なのかどうかをまだ知らないのです。それに悪魔を懲らしめると言っても、悪魔がどこに出現するのか、予想がつかないではありませんか」

「田代さん、言葉がすぎます!」

 慌てて、仲裁に入った猿渡には構わず、田代はセイレーンの肩の白鳩を、疑い深く見つめる。

 真紅の目で嘲るように田代を見返した白鳩は、クークーと鳴きながらセイレーンの肩を離れて、大きな硬質ガラスの窓をくちばしでつついた。

 その瞬間、窓の外の景色が一変した。

 見慣れた高層ビル街の夜景がぐにゃりと歪み、やがてその窓には、新宿に比べてやや小さいビルが並ぶ街が映し出されていた。

「ここは、渋谷ですね?」

 魅入られたように窓辺に歩み寄った事務員の表情が、一瞬の後には恐怖に変じた。

 眼下の路上では、異形の化け物が、咆哮しながら通行人に襲いかかる地獄のような光景が広がっていたのである。

「明日の渋谷の情景です」

 美しいセイレーンの声を、田代は眉をひそめながら聞いていた。


  3

 翌日の午後六時。

 外出禁止令指定時刻を二時間後に控えて、薄暮の渋谷公園通りは短い夜を楽しむアベックでごった返している。

 そのはずれ、渋谷公会堂の正面に停車した白い車に、三人の姿があった。

「そろそろ行かないと、逃げる途中で渋滞に引っかかっちまうぜ」

 運転席の村井が、バックミラーを見ながら硬い声でいう。

「検問に引っかかったところで、俺達の正体はばれっこないさ」

 リアシートの室町は、隣席の北園に目配せすると、ドアに手をかけた。

 その車の傍らを、お揃いの黒のブルゾンに身を包んだ若いカップルが坂道を下っていく。

 男の方は、関谷満男といった。大破壊の時点で被災地にある高校の二年生であった満男は、運よく殺戮を免れて、お茶の水の私立高校に編入されていた。

 そこで出会った、茅野薫とつきあいはじめたのが二週間ほど前のこと。

 原宿で二度目のデートをした二人は、少しでも一緒にいたくて、渋谷までの二キロあまりの道のりを歩いてきたところであった。

「腹へっちゃったよ」

 坂道の先に、ハンバーガーショップを見つけた満男がおどけた声をあげた。

「私、あんまりお金残ってないのよね」と薫。

「まかせなさい。実はバイトの給料が入ったばっかりなんだ」

「ずるーい、今まで黙ってたのね」

 ふざけて振り上げた薫の腕に、満男はすかさず自分の腕をからめた。

 すると急に薫は真面目な顔になって、黙り込んでしまった。

「……どした?」

 薫の顔を覗き込んで、満男が尋ねる。

「私、男の人とこんなふうに腕をくむのは、はじめてなの」

 薫が、恥ずかしそうにぽつりと言った。

「………」

 満男は嬉しくてたまらず、顔をくしゃくしゃにしたまま、店の自動ドアの前に立った。


「おまたせ」

 満男は、店内に流れる『U2』の歌をあやしげな英語で歌いながら、チーズバーガーとコーラの入ったトレイを抱えて、公園通りを見晴らすことのできる席に戻ってきた。

 が、薫はドアの外に視線を向けたまま、彼に気づかない。悪戯心を起こした満男は、彼女の目の前に拳を突き出した。

「キャッ」

 驚いて上体をのけぞらせる薫に、一瞬店内の視線が集まる。

「もう、バカ!」

 薫はふくれてそっぽを向いてしまった。

「怒んなよ、他の男を見てる君のほうが悪いんだ」

「……」

 ふくれっ面でいう満男を見て、薫の口元がまんざらでもなさそうにほころんだ。

「ね、満男君、あの人、変だと思わない?」

 ストローで、コップの氷をかきまぜながら、薫はまたドアの外を見た。

「えっ? ああ、革ジャン着てるチビか」

 ハンバーガーの包装を開きながら、満男が薫の視線を追いかける。

「さっきからニヤニヤ笑いながら、ずっとあそこに突っ立ってんのよ」

「最近は、妙な奴が多いからなあ……」

 満男は最後まで言うことができずに、ハンバーガーを床に落としてしまった。

 突っ立っていた男の眉間に、突然血の筋が走ったのである。

 顔を縦に二つに割るように、鼻梁の中央に伸びた血の筋は、やがて唇から顎を伝って喉元へと下ってゆく。

 男の異常に気づいた通行人の悲鳴が、店内にも聞こえてきた。

 薫は真っ青な顔をして、震える体を押しつけてくる。

 が、満男がその甘ずっぱい感触を楽しむ間もなく、男の皮膚は血の筋を境に左右にめくれあがり、まるで脱皮するようにペロリと赤肉をむき出しにしたのである。

 それはもはや、人の外形を保ってはいなかった。両棲類を思わせる赤い粘質の表皮が、ネオンを浴びててらてらと輝いている。

(なんだあれ……)

 満男が呻き声をもらしたとき、すでに怪物は巨大な口腔を開き、呆然と立ちすくんでいる通行人に襲いかかっていた。

 一方、二人の背後では、室町が店内のカウンターによりかかって、混乱の極に達した人々の様子を面白そうに見物していた。

 その顔に浮かんだ含み笑いが、やがて哄笑に変わる。

 室町の顔面は、瞬く間に無数の黒い疣に覆いつくされていった。


「満男君!」

「やばいぜ、二階に上がっていよう」

 薫を抱きかかえるように立ち上がった満男の傍らに落ちてきた黒い塊が、コーラのコップを倒した。

「えっ?」

 恐怖する間もなかった。

 塊はそのままテーブルを滑り、目にもとまらぬ早さで薫の喉元にくらいついた。

 その正体が、瑠璃色の目をぎらつかせた大蜘蛛であることを認めてたじろぐ満男の目の前で、泣き叫ぶ薫の喉元から鮮血がほとばしる。

「この野郎!」

 薫の首から引きはがした蜘蛛を踏み潰した満男の背に、新たな蜘蛛がざわざわと這い上がってくる。

 血の泡を吐いて苦しむ薫を抱きしめたまま、うずくまっていた満男は、絶望の中で、突然清らかな歌声を聞いたように思った。

 いや、確かに歌声は遠く、けれども力強く店内に流れ込んできた。

 その歌声とともに、蜘蛛の大群はピタリと動きをとめた。


 逃げまどう人々を追いかけて、公園通りを駆け下っていた北園は、歌声を聞いた瞬間、熱湯を浴びせかけられたような苦痛を全身に感じた。

(くそっ、セイレーンだ。ここはいったん引くしかない!)

 意識の奥でラルヴァが叫ぶ。

(なんだと?)

 自らの力に酔いしれていた北園は、思いがけない事態に戸惑っていた。

(同じ魔族ながら、奴の歌声はわれらにとって恐るべき毒なのだ。)

「ちくしょう!」

 呪詛の言葉を吐き散らす北園に、さらなる歌声の矢が放たれる。

 百名あまりの信者を従えたセイレーンは、北園の目と鼻の先にまで迫っていた。

 苦痛に悶えながら坂道を引き返しはじめた北園の目に、体中に蜘蛛をまといつかせたまま逃げていく室町の後ろ姿が映る。

 背後では命を救われた若者達の歓喜の声に混じって、駆けつけたパトカーと救急車のサイレン音が木霊していた。


  4

 少しばかり時を遡った、十月九日の早朝。

 入出国禁止措置が解除されて二週間がすぎたものの、国際便の発着は成田空港のみ、それも一日二十四便までに制限されている。

 大破壊の元凶が、米国から来日した魔道士であることが判明したため、こうした非常警戒態勢がとられている。

 つい数カ月前まで、一日二万人近い海外旅行客を送り出していた南北ウイングも、制服の職員、警官の姿ばかりが目立つありさまである。

 そんな中、ターミナルビル一階の到着待合室だけは、いままでと変わらぬざわめきに包まれていた。

 入出国禁止措置によって海外に足止めされていた人々の帰国が始まり、彼らを迎えるために多くの人が集まっているのだ。

 JALロス発一七五便の到着を告げるアナウンスがあって、約一時間。

 検査、検疫を終えた最初の一団が、税関を通りぬけてくる姿が垣間見えた。

 待合室の人々は、先を争って到着者出口に向かって駆け出していく。

 無事を確認しあって、人目もはばからずに抱き合う恋人達、そして親子連れ。

 その歓声の渦に背を向けて、銀髪の大柄なビジネスマンが、タクシー乗り場に向かって足早に去っていった。

 中島忠義。朱実の父親である。

「東京都庁まで」

 タクシーのリアシートに腰を下ろした忠義は、短く行き先を告げた。

「被災者捜索本部ですか?」

 話し好きらしい運転手は、軽い声で念を押すとアクセルを踏みこんだ。

 被災者捜索本部というのは、壊滅してしまった東京西部の自治体や警察に代わって、行方不明者の消息をフォローするセクションである。

「わかるのかね?」

「家族の安否を気づかって帰国した人を、一日に何人も乗せますんで、顔色で分かりますよ。お客さんも、ようやく航空券が手に入って帰国してみえた口でしょ?」

「……」

 無言の忠義の顔色をルームミラーでうかがいながら、運転手は車を東関東自動車道に乗り入れた。

 忠義は沈痛な顔を、建設中のビルと広大な農地の続く窓外に向けたまま、黙り込んでいる。

「まったくねえ、ここいらを走ってると、大破壊なんて本当にあったのかなって気になりますよ」

 運転手が、忠義の心を読んだように言った。

「被害を受けたのは新宿から立川までの地域だけですからね。それでも死者七十万、行方不明者八十万てんですから、こわい話です。しかも不明者のほとんどは絶望だってんですから……おっと失礼しました」

 ルームミラーに映った忠義の厳しい視線に気づいて、運転手は慌てて口を閉じた。

 それから二時間後、丸の内の東京都庁第一庁舎前に到着した忠義は、はじめて大破壊を身近なものとして実感した。

 家族の安否を気づかう人の群れは、東京駅南端から有楽町駅北端にかけての広大な敷地に収まりきれずに、八重洲口方面にまで溢れ出している。

 車を降りて、その長大な人の列に戸惑う忠義に、運転手が声をかけてきた。

「見た目ほど時間はかかりませんよ。被災者の安否や収容先を検索するオンラインシステムがフル稼働してますからね。列は捜索先の住所ごとにできてますから、間違えないで下さいよ。あっしも、ここに並んだことがありましてね」

 この運転手も、大破壊で家族を失ったのだと気づいて、忠義が慌てて声をかけようとしたとき、車はすでにUターンしてしまっていた。


 十あまりの庁舎の間に敷設された迷路のような道を、人の波をかいくぐりながら、忠義は杉並区上荻地区とプレートのかかった列の最後尾に並んだ。

 運転手の言葉どおり、一時間あまりで忠義は検索システムの端末機の前にたどりつくことができた。

「お捜しの方の、お名前を」

 若い女性職員の、事務的な声が尋ねた。

「中島……中島朱実と中島ゆかりを」

 一語一語をかみしめるように発音する忠義の声にあわせて、キーボードを叩く音がする。

 ややあって、

「旧住所は、上荻三丁目□番□号ですね?」

「そうです」

 頷く忠義の目が、祈るように女性職員の口元を見つめている。だが、

「お気の毒ですが、ゆかりさんは八月十二日死亡届けが出されており、朱実さんは行方不明となっております。朱実さんについては、ご本人、ないし公的機関からの届けがありしだい、あなた様にお報せします。連絡先を教えて下さい」

 そっけない女性職員の声が、頭を叩きつけるように響く。

 よほど長い間立ちつくしていたのか、列の後ろから苛立たしげな咳払いが聞こえた。

「失礼、滞在先は……」

 一気に吹き出した汗を拭おうともせず、血の気の失せた唇をようやく開いた忠義に、女性職員は黙って検索結果のプリントアウトを手渡した。

 踵を返しながら、悔しそうにプリントアウトを見やった忠義の目は、ふと妻の死亡日時に吸い寄せられた。

(八月十二日? この時期はまだ、大破壊は始まっていないではないか。どうして朱実は私に連絡しなかったんだ……。)

 忠義の心の奥から、なにか得体の知れぬどす黒いものが噴き出しはじめていた。