運動部に行ったらスケオタになった件③
②では、衝撃の運動部異動の内示を受けた日までを記しました。今回は、運動部に行ってからの心の動き、運動部で仕事をするうえでの使命を見つけたお話です。(今回、めちゃ長いです)
担当が決まるまで、不安な日々を過ごし・・・
「8月から運動部でお願いな~」と内示を受けて異動までの1カ月間。市政での仕事に悔いを残したくなかったので、書きたいネタを存分に取材しました。着任日の8月1日の朝刊1面にトップ記事を載せて、ある意味腹をくくって運動部に向かいました。そのときの記事はこれ↓↓↓
ついに、担当が決まる!
着任し、担当競技が決まりました。
「冬の競技をメインに担当してほしい」
ちょうど、直前まで担当していた記者が配置換えになったこともあり、入れ代わりで冬の競技(フィギュアスケート、スピードスケート、ショートトラック、カーリングなど)+バレーボール、ハンドボール、ゴルフetcという担当になりました。
フィギュア担当でよかった・・・のか?
野球とかサッカーに比べれば、フィギュアスケートは①の記事でも触れたように小さい頃からテレビで見ていたこともあってまだ好きな方だ。でも、そもそも運動面もあまり読んでいなかった私に務まるのか?不安ばかりが募りました。
スポーツ取材が始まる
最初の取材は夏の高校野球。生まれて初めて甲子園に行きました。
前回の記事にも書きましたが、野球取材に強烈な苦手意識を持っていました。支局時代は勝負のあやなど、そんな高度なことが書けるわけもなく、活躍した選手について頑張って書くくらいでした。
だけど、運動部記者はそうはいきません。
いやいやいや。本当に運動部記者として記事が書けるのか?
何度もそう思いましたが、甲子園の中盤から実際に現地に行って取材することが決まり、その後に大津市であるフィギュアスケートのげんさんサマーカップの取材に向かうことも決定。
頭の中は野球でいっぱい
甲子園取材に行く前に、テレビで試合を見ながら見よう見まねで記事を書く練習をしたり、スコアブックもなんとなく書けるようしたり準備をして向かいました。
それでも、試合を見てもなにを書いて良いのか分からないし、どの場面に注目したらいいのかも分からない。
その日の最後の試合の原稿を書くことになったときには、締め切りまで時間がなさすぎて泣きそうになりました。ていうか、実際泣いた。
そんなこんなで初めての甲子園取材が終わり、フィギュアスケートの大会取材のため大阪から大津に向かいました。
が
苦手な野球のことで頭がいっぱいで、フィギュアスケートのことはほとんど準備しないまま取材会場に行ってしまいました。
出場選手で名前を知っていたのは、女子の坂本花織選手、三原舞依選手だけだったと思います。(この大会では坂本選手は欠場でした)
生まれて初めて書いたフィギュアスケートの競技記事
取材初日。その日は男子のFSと女子のSPがやっていました。
とりあえず、出場選手の中で中日新聞エリアにゆかりのある選手をチェック。男子は山本草太選手、女子は河辺愛菜選手ら中京勢。このあたりに目星をつけて取材しようと考えましたが
いや、待って?そもそも結果の見方も分からんし、あなたがいま滑っている曲はなんですか?
もうね、絶望でしたね。なんにも分かってない。
絶望していても原稿は出さないといけないので、現場にいた中日スポーツの先輩記者に聞いたり、Googleで曲を検索したり。その場で思い付く限りの、ありとあらゆることをして乗り切ろうとしました。
このとき、すごく覚えているのは、山本選手が前の選手(確か友野選手だったと思う)が演技が終わってあいさつをしている途中でリンクインしたこと。「おお、気合が入っている」と思ったのでした。
そんなこんなでそろそろ記事のことを考える時間になりました。悩みます。「一体、だれの原稿を書いて出したらいいんや?」
その日のデスクに相談し、男子で優勝した山本草太選手をメインに書くことにしました。女子の河辺愛菜選手も短く出稿することに。生まれて初めてのフィギュアスケートの競技原稿です。
山本選手で書くと決まって、だいたいの行数も指定があり、書き始めました。ですが、本当になにを書いて良いのか分からず、どのように書いて良いのか分からずの状態。
30行にも満たない原稿がまったく書けませんでした。
記者になって十数年。30行ほどの原稿なんて山ほど書いてきたのに。なんなら1日に何本も書く日もあったのに。
ぜんぜん筆が進まない。過去の記事を参考にするなどして、1時間以上かかってようやく書き上げて出稿。
すぐにデスクから電話があり、さまざまな指摘を受けて書き直し。
出来上がったのは21時半すぎでした。
出来上がったのは、わずか26行の原稿。
新聞の運動面は13字詰めなので、約330字。それが書けませんでした。
以下、当時の新聞に載った原稿です。
長らく右足首のけがに苦しんだ男子の山本が、飛躍への確かな手応えをつかんだ。4回転トーループなど3本を成功させ「いい4回転が跳べた。少しミスはあったが、まとまった演技ができた」と優勝を喜んだ。
~~~~~~以下省略~~~~~~~
いまなら、わりと書ける原稿ですが、本当に苦労しました。
次の日は、女子の三原舞依選手のフリーの原稿を書きました。「恋は魔術師」。途中で曲がストップしてしまうアクシデントがあり、「そもそも普通の原稿も書けないのに、アクシデントが起きたとかほんとやめてーーーー」と思いながら執筆。
こんな感じで生まれて初めてのフィギュアスケートの取材が終わりました。
やれやれ・・・と10日ほどの出張を終えて名古屋に帰ってきましたが、運動部の仕事を楽しんでやれそうかと言われたら、答えは「NO」です。
だって、入社10数年なのに30行の原稿すらまともに書けないから。中堅記者なのに、まるで新人に戻ったかのようです。
一方で、仕事をやる上での使命さえ見つかれば、積極的に取材ができるとも考えていました。以前、北陸本社経済部で働いた際もそうでした。数字が大嫌いなのになぜ経済部なのかと思いましたが、SDGsという自分なりの軸を持てたことで楽しく、受け身にならずに原稿を書くことができたからです。
はやくそうしたものが見つかればと思っていたら、けっこうはやくやって来ました。
異動して2カ月後。スピードスケート女子で五輪金メダリストの小平奈緒さんの引退レースを取材することになったのです。
小平奈緒さんのことも名前だけ知っていたが、どんなレースをしてきたのかも知らなかったし、500メートルを36秒ほどで駆け抜けるそんな競技をどうやって原稿化したらいいのかと悩みながら現場に向かいました。
小平さんが五輪を目指したきっかけ
引退レースが終わり、囲み取材の場で小平さんが最初に発した言葉はメディ
アへの感謝でした。
「長野五輪のあの熱気、盛り上がりをメディアの皆さんが伝えてくださったから、いま私はここにいます」
小平さんは、長野のMウェーブで観戦したわけではなく、新聞やテレビで競技を見ていたそうです。
その言葉を聞いた瞬間、「ああ、わたしの運動部での使命はこれか」とストンと腑に落ちました。
未来のオリンピアンのため、アスリートの喜び、苦しみ、焦り、成長を余すところなく伝えるんだと。
子どもたち、アスリートが夢を実現できるための環境をメディアの仕事を通して整備していくことも私がやるべきことなんだ。
自分のなすべきことが分かったからなのか、小平さんの温かくてスピードスケート愛に満ちた言葉が心に染みたのか。ミックスゾーンの最前列で涙が溢れて仕方がなかった。
泣きながら小平さんの言葉に耳を傾け、原稿を書きました。
そのときの原稿がこれ↓
わたしにとって、エポックメイキングな取材でした。小平さんとの取材を通した出会いがなければ、いまの私もありません。
やべえ、めっちゃ長くなったのですが、ついて来れていますか?
次回こそ、フィギュアスケート沼にハマった話しをします。
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