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LGBTQ事情#21 LGBTQの人になろうとしていた。

 私は最近「ワタシ」を忘れて、「LGBTQの人」になろうとしていた。

 コラムをきっかけに講演の依頼をたくさんいただいた。話す内容を考えるため、インターネットや本を読み漁ったが、壮大すぎて頭がくらくらした。生物学?医学?法律?歴史?なにもまとまらないまま、ある講演の前日、突然取り憑かれたように、自分で髪をバッサリ切った。今の見た目では、ただの女で「LGBTQの人」としての説得力に欠けるんじゃないかと思ったのだ。そして勉強したことを詰め込んだ原稿を読みながらなんとか講演を終えた。その後、参加者の皆さんから、トイレや同性婚などの問題について質問されたが、あわてて原稿を見返し、たどたどしく答える始末。こんなことではいけないと思った。それに短髪にしただけのただの女にしか見えない人が、ネットで調べたことを話すだけのLGBTQの講演会なんか最悪じゃないか。もっとちゃんとした話が出来る「LGBTQの人」にならなければ。だけど講演の依頼があるたびに空回りをしているような気がした。

 そんな中、昨年の12月に吉賀町の六日市中学校へ講演に行った。講演後にもらった中学生の感想にハッとした。「LGBTQなんて言葉があるから差別が生まれると思う。みんな一人ひとり違って当たり前なのに。」そうか、私は「LGBTQの人」になろうとしながら「ワタシ」を見失っていたんだ。LGBTQは私を説明するほんの一部分にすぎない。講演だからと肩肘張らず、等身大の「ワタシ」としてありのままでよかったのかもしれないと気付かされた。

  今の私はLGBTQによる苦しみはないのだから短髪にする必要はなかったし、むしろ講演への不安をビジュアルで補おうとしていたなんてダサすぎる。うまく答えられなかったトイレや同性婚の問題にも今ならどう答えるかと考えてみる。私はないものを手に入れることよりも、今あるものをどう工夫して活用するかを考える方が好き。トイレは男女の「性別」で分けずに、「目的」の大便と小便で分けるとか。同性婚は、法律婚と比較して事実婚の社会的価値の高さを洗い出してみるとか。トイレを工事するお金や法律を変える権力はなくても、実現できるかはさて置いて自由に考えてみたら、今の自分にできることが無限にあるように思えてきた。だけどアイデアが湧くほど、これまでの講演の参加者の皆さんには、ネットや本の知識に頼った話ばかりで申し訳ない思いでいっぱいになる。

 私はよく「ワタシ」を見失う。見失うことも個性として受け入れて、見失っては見つけ、見つけては失ってと繰り返しながら、どんな環境でも、どんな時代でも「ワタシ」らしく「ワタシ」を生きこなしたい。

2022年2月1日火曜日 山陰中央新報 掲載分
写真 いしとびさおり

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