双極性障害の私が司法試験に合格する話(363)価値なし、と言われて。

混乱してる。

私が見たい映画を、尊敬する大好きな人が、「見る価値なし」と言った。なんか、なんでか、すごく嫌だった。なんで嫌だったのか、落ち着くために、ここに殴り書きしてみようと思う。

私もね、昔は、つまらないと思った作品や嫌だなと思った作品は、何でもかんでも、「見る価値なし!」と言って歩いてた。

でも、私は一度、舞台人としてあるまじきことをした。出演が決まっていた舞台の2日前くらいに、降板したのだ。仲間と喧嘩して、嫌になって、舞台を降りると言って、そのまま劇団も辞めた。でも、私は、その時に、心底、こう思ってた。「この舞台が成功するための、今の私ができる、最善の方法だ。」と。だから、舞台を降りたことだって、私は、作品の一部だと信じてた。でも、周りは許さなかった。私のこの言葉は、言い訳としてさらに火に油を注ぐことになった。たくさんの人が離れてった。

でも、私は女優を辞めてない。なぜか。それは、やっぱり、あの時の選択を、私の考えを、間違っていると思わないから。申し訳ないとは思う。たくさんの人に迷惑かけた。悲しませた。裏切った。自分の選択が間違ってたとしたら、私はもう女優はやらないはずだ。お客さんは、もう戻ってこないかもしれない。でもそれでいい。私が、思う、価値観で、女優をやる。まっすぐ。そう思った。

あるアーティストが、遠くはるばる、私の初監督作品を見にきてくれたことがあった。あの作品は、納得いかなくて悔しくて、本当は見られたくなかった。価値ある作品とは思えなかった。それなのに、真剣に見て、その感想をくれた。面白かったと言ってくれた。自分が作品を作る人だからなのか、人の作品を見る力をその人は持ってる。すごいと思った。自分もそうであろうと思った。

だから、「見る価値のない作品」なんてものは、この世の中にないのではないか。と思う、というか、そう願う。作品は、人間が生み出したもの。それを否定することは、その人のメッセージを否定することにもなるんじゃないか。私はそう思う。好き嫌いはもちろんする。私なんて特に好き嫌いの激しい人間だ。だけど、価値なし、なんて言っちゃダメだ、自分に対してそう思うし、今は、それが私の真ん中にある。どんな人間でも、価値のない人なんていない。だから。どんな発言も、どんな行動も、私は、まず受け止めたい。例え、人殺しであってもだ。声に耳を傾けるべきだ。私はそう思う。それをやめて、価値のないものだと斬ってしまうことは、悲しい。嫌だ。

そうならば、「価値なし」と言ったその人の言葉も、私は、受け入れるべきなのだ。その人がなぜそう思うのか、その人にどんな歴史があって、そういう言葉に至ったのか。私は、それを、知りたい。知るべきだ。

大好きな人に対して、嫌だ、そう思った。だから、知りたい。もっと知りたい。

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