そう、これはきっと「当たり前をあえてつくるという愛の主張」なんだ。
「当たり前」は意識しないと、指の隙間からこぼれ落ちる。
守り続けていくための「主張」
掬い上げるための方法。
対立ではなく、愛で声を上げていくための手段なんだ。
子どもの遊び場を「あえて」作る意味を、最近ずっと考えていた。
少し、揺らいでさえいた。
おそらく、圧倒的少数派だったから。
就職してから、遊びって、子どもの今と育ちに必要不可欠だよね、っていう共通言語をもった世界に長いことどっぷりと浸かっていたんだ。
でも実は、社会の中では、まだまだまだ浸透していない。それを痛感する日々。響かない、もどかしい、どうしたらいい?
そんな悶々とする日々。
悔しささえあった。無力感さえあった。
でも今日、久しぶりに常設のプレーパークに行って、そこに流れる空気を感じて、あらためて、思ったことがあるのだ。
爆発するエネルギー。脈々と流れる愛。
じっと座っているのに躍動している子どもら。
カオス、まぜこぜ、それぞれ。
こどもも大人も、来る人も作る人も。
あの遊びもこの遊びも。
いつか誰かが掘った穴も、今日あの子がつくった川も。
脈絡がないように見えて、みんなみんな、この場所で繋がっていく。
わたしも、あなたも。
守られている。信じあっている。
その絶対的な安心の空気に身を委ねている。
意図した自由。
自由を守るための自由。
環境さえあれば、こんなに遊ぶんだよね、子どもらは。
場がなければ?
子どもはそれに順応する力を持っている。
本来持っている力を内に押し込めてしまう。
帰省してから、環境の変化を敏感に感じ取ってか外出のほとんどを「抱っこして」の息子が、目をまんまるく見開いて歩き出す。背中が弾んでいる。
足も、指も、耳も、目も、肌も。
身体のすべてで何かをキャッチしようとしてる。
じっと見つめる。
お兄ちゃんやお姉ちゃんが高い遊具の上で誇らしげに笑うのを。
「すごいな、ぼくも。」
背中がそう言っている。
彼の何倍もある高さの滑り台、自力で登り切った頂上でちいさな声でつぶやいた「できた。」
ギターを弾く若者もいれば、はいはいの赤ちゃんもいる。
孫と来たおばあちゃんもいれば、抱っこ抱っこのお母さんもいる。
人生のいろんなフェーズのひとたちが、遊びで繋がる。
意図した自由の中で、意図しない何かが生まれる。
その面白さが、私は好きだ。
だからこそ、「自由に遊ぶ」当たり前をあえてつくるという愛の主張をしていく。