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ものすごくうるさくて、ありえないほど近い、私があの日に思うこと。

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画を観た。

信じられないことに、もう17年も前のことなのだった。
2001年、ニューヨーク。
9月11日に、あの忘れられない事件は起こった。
テロで突然に父を亡くした少年の目線から「喪失と再生」を描く、繊細であたたかい映画だった。
けれど、激しく悲しみに満ちた映画でもあった。
最初から最後まで、突き落とされるように、駆け抜けるように、めちゃくちゃに泣いた。
それと同時に、私はいくつかの記憶を思い返していた。

3年前の秋。
初めて、ニューヨークの地をこの足で踏んだ。
父がウォール街に単身赴任となり、母も同じタイミングで対岸のニュージャージーに通勤することになったため、観光がてら両親に会いに行ったのだった。
映画やドラマの中でしか観たことのなかったマンハッタンの景色はまるで夢のようで、私は興奮を隠しきれなかった。

父のアパートの近くに建つ真新しい高いビルは、まっすぐな直線を描き、晴れやかな青空と白い雲を眩しく映し込んでいた。
その姿はこのニューヨークの街に相応しく、堂々としていて、とても美しく見えた。
ビルがそびえ立つふもとには、とある有名な呼び名がある。
『グラウンド・ゼロ』。
9.11同時多発テロが起こった、あのツインタワーの跡地である。
大きな四角い慰霊碑の中には静かに水がたたえられており、見渡すほどに沢山の名前が刻まれている。
中には日本人の名前もあった。
多くの人が、それぞれに花を添えていた。
いつも騒がしいニューヨークでさえも、この空間だけは不思議と静まり返っているように感じた。
併設された9.11メモリアル・ミュージアムの中を歩きながら、正直なところ、このとき初めて私は実感した。
この場所であの事件が、本当に起こったのだ。
焼け残ったビルの壁や、ねじ曲がった消防車、あの日のマンハッタン行きの電車の切符、残された帽子、新聞の一面。
打ち付けられた生々しい記録を目の前にして、今まで自分が蚊帳の外にいたことを知った。
周りの表情はさまざまで、うつむいたり、写真を撮ったり、文字を真剣に見つめたり、ひそかに涙を拭っている人もいた。
薄暗く天井の高い建物の中には、はっきり言って異様な空気が漂っていた。
一瞬にして失われ、今も失われ続けている、あまりに多くの名前たち、あったはずの場所…、私は、耐え難くなり、途中で外へ逃げ帰ってしまった。
今まさに家族の住んでいる通りが、瓦礫や煙で埋め尽くされている写真を見て、目を塞ぎたくなったからだ。
そして気づいてしまった。
こんなにも世界には情報があふれていて、たくさんの戦争や殺し合いのニュースを日々目撃しているのに、結局私は傍観しているだけだった。
本当にその場に自分がいない限り、本当の意味で理解することなどできないのだと悟った。
17年前、あの場にいた人々は、何を思って灰色の空を見上げていたのだろうか。

今でも忘れられない記憶がある。
当時、私は小学四年生だった。
通っていた学習塾から帰宅したとき、父はリビングでテレビを見ていた。
なにかに驚いたように目を大きく見開いて、画面をじっと凝視する父を変に思い、私もテレビの画面を覗き込んだ。
ふたつの高いビルから黒い煙がもくもくと上がり、そこにミニチュアのような飛行機が突っ込んでいく映像だった。
アナウンサーは緊迫した様子で、早口でしきりにニュースを繰り返していた。
最初は理解できなかったが、なにか恐ろしいことが起こっていることだけはわかった。
当時から私の両親は海外出張が多くて、特に母はアメリカへよく行っていた。
その日も母がいつものようにアメリカ出張へ出かけていったことは知っていたが、詳しいことはなにも聞いていなかったのである。
もちろん、彼女の行き先がニューヨークだったことも、飛行機の到着が朝早くだったことも、打ち合わせ先がワールドトレードセンターだったことも知らなかった。
テレビを見て固まる父が、お母さんの飛行機の便名、いくつだっけ…とつぶやきながら、ただただ呆然としたままだったのを覚えている。
父は、いつも明るくジョークばかり言っている人だった。
彼の普段見ない強張った雰囲気に、言い様のない恐怖を感じたのだった。
状況を徐々に理解した私は、もしかすると母があの飛行機に乗っているかもしれないということ、もしかすると煙を上げるビルの中にいるかもしれないことが分かったが、あまりにも現実離れした光景に、実際のところ不安な気持ちにすらなる余裕がなかった。
おそらく父もそうだったのだと思う。
そのあとの記憶は、いまや曖昧になってしまった。
しばらくして母の安全が確認できるまで、ただただふたりでニュースの画面を食い入るように見つめていたこと、翌朝の学校で、日直だった私が朝礼で事件について何かスピーチしたことだけは覚えている。
もし、母の乗った飛行機が、あの便だったとしたら?
もし、母の到着が一日早くて、あの日の朝あのビルで打ち合わせをしていたら?
そんなことを今さら言ってもどうにもならないし、無事で本当によかったという気持ちしか無いけれど。
あの夜の父の表情と、繰り返されるニュースの映像、混乱の中、なかなか日本へ帰国できなかった母が家に帰ってくるまでの長い長い数日間、今後何十年経っても絶対に忘れることはないと思う。

私も、両親も、運良くあの事件の当事者そのものにはならずに済んだ。
あの日感じた感情は消え去さらなくても、恐ろしい事件をリアルタイムで体感したことは事実だった。
なのに、未だに世の中に起こり続ける争いごとは、結局他人事にすぎない。
あの日を皮切りに、世界は明らかに戦争へと傾いた。
なにかが大きく変わってしまった。
日々報道される争いごとや、SNSで発信されるテロの速報をこんなにもすぐ知ることができるからこそ、あの日から世界はどこも平和になっていないと強く感じる。
悲しいかな、私がなにをしようが、どんなに戦争について考えようが、その場に自分がいない限り、真の意味で理解することはできないだろう。
誰がなんと言おうと、実際、私の住む日本はまだまだ平和で安全な国だと思っているのが正直なところだ。
そしてそれはもちろん、とても幸せなことだと理解している。
でも、今回観たこの映画のように、世の中には多くの知らない人がいて、多くの知らないなにかを経験し、多くのなにかを失ったり、悲しんだり、怒ったり、時に喜んだりしている。
世界はあまりに広いから、その全てを知らなくて当然だけれど、それを知ろうとし、理解しようとすることに意味があるのだと思いたい。
一つでも多くのことを知っていれば、そのぶん誰かに寄り添うことができるかもしれないし、知らない誰かに教えてあげることができるかもしれない。

9.11に限らず、大きな事件を題材にした映画は、場合によっては批判されることも少なくない。
私でさえも、あの日の恐怖を思い出したくなくて、なんとなくその手の作品は避けることが多かった。
もちろん、決して軽く扱われるべきものではない。
それを踏まえた上で、忘れてはいけない出来事を後世に伝えていくことは、私がグラウンド・ゼロを訪れたように、また多くの他の人に知るきっかけを与えてくれるはず。

この映画を観て、「向き合うこと」の難しさと、その大切さを学び直した。
安直な感想かもしれないけれど、今回の機会がなければ、こうして久しぶりに過去を振り返り考えてみることもなかっただろう。
次、いつかまたニューヨークを訪れることがあったら、今度こそメモリアル・ミュージアムを最後までしっかりと見届けたいと思う。
上映してくださった移動映画館団体キノ・イグルーさんに、こっそりと感謝の気持ちを伝えたい。

#エッセイ #日記 #映画

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