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コラム『悲しみや こんにちは』

■「悲しみよ こんにちは」

フランスの作家、フランソワーズ・サガンが18歳で書いた処女作「悲しみよ こんにちは」という小説がある。

自由気ままな主人公とその父親が繰り広げる恋愛模様と嫉妬。その先にある心の空虚感を描いた作品で、自らの怨憎会苦が招いた死によって、悲しみに付き纏われるという悲惨な物語だ。

誰しも人生の中に、喜びもあれば苦しみや悲しみもある。
しかし、生き方、考え方によって喜びも悲しみも大きく意味が異なってくる。

この小説の登場人物たちのように、自我の世界に捕らわれていたなら、人生そのものが味気なく、悲しいものになってしまうかもしれない。

しかし、どんなに深い苦しみや悲しみと対面したとしても、生き方や考え方が覚醒していたなら、その苦しみや悲しみをも糧にすることが出来るのだ。

ある日、知り合いから、転居のお知らせが届いた。
鎌倉時代から続く由緒ある古刹の近くに引っ越したのだという。その挨拶文の中に、次のような文面が綴られていた。

ー妻を弔い、又ご縁頂いた人々を思い ここで過ごすひとときは 私の貴重な一刻であり 又無常の至福の時でもありますー

その方の奥様というのは、私にとってかけがえの無い恩人であり、大切な友でもあったのだが、旦那様にこのような文面を書いてもらえて、さぞ浄土でも喜んでいるに違いない。

そのハガキの空欄に、ー 「常懐悲感心遂醒悟」この言葉を大切にして 生きて行きたいと思っております ーと手書きで書き添えられていた。

私は、恥ずかしながらこの言葉を全く知らなかった。漢字を読み、ある程度は意味がわかる気がしたが、きちんと理解したいと思い調べてみた。
これは、「常懐悲感 心遂醒悟」(じょうえひかん しんすいしょうご)と読み『法華経』の中の出てくる言葉だった。

悲しみは取り除くものでも遠ざけるものでもない。心の中に懐くものである。やがて、その悲しみの心に導かれて、悟りの境地にいたるのである。という意味だそうだ。

印字された挨拶文の冒頭には、念願の弥勒浄土を現した美しい池があるお寺のそばに引っ越したことなど綺麗な文体で綴られていたが、手書きの「常懐悲感 心遂醒悟」の文字に言葉に言い尽くせないほどの深い悲しみが伝わってきた。

しかし、同時に「その悲しみをも懐に入れ、一緒に悟りの境地、彼岸まで辿り着こう」と目に見えぬ手を取りあっているような、強い夫婦愛のすがたも感じた。

愛する人との別れほど、辛いものはないだろう。しかし、やがて誰しもその苦しみと向き合わなければならない日がやって来る。

その時に「常懐悲感 心遂醒悟」の言葉を知っていたなら、それが生きる糧になるかもしれない。 

aya tenkawa        

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