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こえ

 人間と関わることが嫌いなので『こえ』を出せない人になろうと決め、決めた瞬間から『こえ』を出すのをやめた。『こえ』を一切出さないし『こえ』のはもうないものにしようとかみさまに誓った。
 もともとライン仕事なので喋りなどよりの手の動きの方に重点を置くため会社にいる人間との会話など挨拶程度だったけれど、無愛想だけれどどこかつかみどころのないあたしにおしゃべり好きの女子どもはささやかなイジメをするようになった。作業着のポケットの中にミニトマトを入れたり、ロッカーの鍵を壊したり、部長と不倫してるんだってー、と、そんなことあるはずもない嘘をはやしたてたり。学生時代よりも幼稚なイジメにあたしは苦笑しつつまるで屈しなく殺伐とした態度ですごしていた。
「どうしてあやまるってことをしないの?」
 イジメのリーダー格であるササタニさんがお昼休みにいちいち話しかけてきた。今日はカレーライスの日だ。水曜だけは特別にご飯もルーもおかわり自由。あたしは二杯目のカレーを食べ終える寸前だった。
 あやまる? いったいなにに対して? ササタニさんの顔を見上げつつ顔をしかめる。それにあたしは『こえ』がない。ササタニさんは苛立ちをにじませつつ言葉を続ける。
「その態度がムカつくんだよ。ほんんとうに部長と不倫関係なんじゃないの? だから否定もしないんじゃないの? なにもいわないでさ、」
 ないでさ、のあたりになるとほとんど唾を吐くような仕草になっていて唾が飛んでないかじっと見つめてしまった。ササタニさんはじっとあたしの顔を見ている。なにかいいかえすであろうと見据えての無駄な時間。それでも待っている。あたしは顔をカレーのお皿に戻す。
「ほんとうにムカつくぅ!」
 くるっと回転をしあたしに背を向けて食堂を出てゆくササタニさんの後ろ姿はおそろしいほど大きく見えた。実際ササタニさんはなにもかも大きい。背も胸も尻も頭も目も口も。全てが。大きい。
 抵抗をしないでおけば相手はさってゆくし興味を失い自分の方が悪い人間ではないだろうか。というところに落ち着いてなにもなかったことになる。
『こえ』をどこかに置いてきてからというものなにもかもが平和になった気がしてならない。部長との噂は実はほんとうだったけれど部長はあたしのことを、重い、と、最悪の言葉で存在を殺した。なので以前部長との愛の囁きをスマホで録音をしそれをROMにやいて自宅に郵送した。そのあとはどうなったのか知らない。きっとそれがあたしの最後の声なはずだ。
『こえ』を出さない生活にもなれてあたしはどうやら意図的に喋らない人ではなく喋れない病気になった人になっていた。
「ムラタさんって喋れない病気なんだってさぁー」
 そんな噂がまたコバエのようにブンブンと飛び散り始めた。都合が良かった。だから紙と鉛筆をいつも持ち歩きなにかあれば紙に書いた。『ありがとう』とか『どうも』とか。幸か不幸かとても達筆だったので『こえ』をする前よりもあとの方が同僚が優しい言葉を投げてくれるようになった。
 弱いものには優しい。抵抗なき人間には特に。
 人間はあざとくてせこい。あたしはもう猫のようになっていて『こえ』をなくしたぶん、そのぶん、人間の欲の深さが身にしみてわかるようになっていた。

 ほんとうに『こえ』の出し方をわすれてしまったので『ツマ』に背中を包丁でさされても、ぎゃーとも、わー、ともいえずにその場にまあるくなった。あたり一面が血の海になって視界がじょじょに狭くなってゆく。『ツマ』は、あああっ、と、真っ青な顔をしつつ後じさり、そのまま走って逃げてしまった。会社から出てくるところを待ち伏せしていたようだった。夕焼けのひどく燃えた時間だった。カラスが何羽も頭上で回っていた。あ、あたしきっと死ぬ。カラスは死人が出ると察知する生き物だと知った幼少の頃を思い出す。
『こえ』を失って得たものもあったけれどやはり失ったものの方が多いと今になって死の淵に立って思い知る。
「キャー‼︎ だ、誰か、来て、救急車、きゅうー」
 うすぼやけた意識の中であたしは何人かの人に囲まれている形になっている。か〜ごめ、かごめ、か〜ごの〜、
 あたしを囲んで皆で手を取り合って回っている。それも笑顔で。白い歯を見せて。歌や止んだとき、振り返って名前を呼ぼう。
『ササタニさん』
 と。『こえ』はでないから紙に書いて。きっとササタニさんは、ムカつく! とかなんとかいいながらそれでもきっと鬼になってくれるに違いない。

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