ラーメン博物館に育ててもらいました
一番好きな博物館は?と質問されたら、迷うことなく「ラーメン博物館」と答えるに違いない。それくらい、新横浜にあるこの博物館が大好きである。
小学校低学年の頃から、ラーメン博物館には定期的に通っていた。東京に住んでいたので、行く頻度はそこまで高くなく、年に2,3回程度だった。
「明日はラーメン博物館に行くぞ」
前日の夜に父から号令がかかる。毎度突拍子がなかったのでびっくりしつつも、
「やった〜!」
と全身で喜んだ。胃も小踊りしていた。
我が家ルールの一つで、なぜかラーメン博物館に行く日は学校を休むことが許された。朝、母親が電話で学校の先生に、
「息子が今日微熱がありまして、、」
などと嘘偽りを吐いている横で、ぼくは口を押さえてイシシシと笑っていた。普段は
「嘘をついてはいけません!」
と厳しく教育する我が親が、ラーメン博物館に僕を連れて行くために平然と嘘をつく様が、矛盾していると思いながらも、なんだか痛快だった。
家から車で1時間半、若干の車酔いで気持ち悪くなりつつも、ラーメン博物館に入って地下に潜れば、たちまち元気が出てきた。
昭和レトロな風景をイメージした空間に、毎回ワクワクした。「昭和」を経験していないのに、なぜだかノスタルジックな気持ちになった。昭和に生まれていたら、どんな風に毎日を過ごしていたのだろうか。
小学生の時は豚骨ラーメンが特に好きだった。当時博物館に出店していた「こむらさき」(今も変わらず現役!)や「ふくちゃんラーメン」(2009年に閉店)は必ず食べた。
「ふくちゃんラーメン」の座席に置いてあるにんにくクラッシャーを使うのが楽しみだった。小学生の自分には難しく、父親がすごい力でクラッシャーを握ってにんにくが抽出されていくのを見て、父親の威厳を感じていた。
大学生になってからは、友人と行くようになった。当時はクロスバイクに乗ることにハマっていて、自宅から片道30キロくらい漕いで行くこともあった。疲れた体にラーメンの濃厚なスープは深く染み渡った。
豚骨ラーメンは相変わらず好きだったが、味噌ラーメンの魅力にも気づき始めていた。「龍上海」や「すみれ」といった味噌ラーメンの名店の暖簾を毎回くぐっていた。
その頃、初めて占い屋さんに占ってもらった。博物館の中の、昭和レトロな街の道端に占い屋さんがいたのだ。
当時付き合っていた彼女との行く末を占ってもらった。
「どうですかね?」
「半年後がターニングポイントだね。そこを乗り切れば大丈夫だよ」
「半年後かぁ、気をつけますね」
2ヶ月後に別れた。それ以来、占い屋さんは信用していない。
博物館に出店しているお店はだいたい7〜8店舗くらいあり、常時出店しているお店もあれば、期間限定のお店もある。
いろんなお店を巡れるように、「ミニラーメン」をどのお店も注文できる仕様になっている。来る時はいつも3〜4店舗くらい巡っていたので、ほぼ毎回食べる「こむらさき」で1枠埋めたとしても、行くたびに新しいラーメン店に巡り会える喜びを感じていた。
先週末、いまお付き合いしている彼女とラーメン博物館に行った。彼女もラーメンが好きで、食べる量も同じくらいなので、最良のパートナーだと思っている。
この時は「元祖 名島亭」、「琉球新麺 通堂」、「野方ホープ 1994」を巡って味わった。どれも初めて行くお店だった。
名島亭では、中学生の時以来にんにくクラッシャーを使って興奮し、通堂では塩ラーメンの魅力を感じることができた。野方ホープに行った時は3軒目で少しお腹が膨れていたけど、ラーメンのほかに頼んだ「ガンコババアの賄いカレー」がとても美味しくて、一瞬で完食した。
「どこも並んだけど満足な美味しさだったな」
「また行きましょう」
などと語らいながら、腹ごなしに昭和の街を歩いていると、道端に占い屋さんのスペースを見つけた。しかし誰もおらず、「お休み中」と張り紙がしてあった。
占いに頼らずとも、未来は自分で切り拓くものだ。
そう心に思いながら、僕は彼女と並び、昭和の街の喧騒を抜けて地上への階段を昇っていった。
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