『ブルーを笑えるその日まで』(監督:脚本:武田かりん)鑑賞雑記20240109
『ブルーを笑えるその日まで』(監督:脚本:武田かりん)を鑑賞。
2023年は、『PERFECT DAYS』(監督:ヴィム・ヴェンダース)で映画は見納めの予定だったのだが、クリスマス前、ここにきて思いもよらぬメッセージ性の強い作品に出会うことになった。
構想は数年間に及び、監督自らアルバイトをしつつ、クラウドファンディングで2年前から資金と作品への理解者(ファン)獲得に動き出していたとのこと。吉祥寺は30年間以上を歩き回っているエリアにもかかわらず、迂闊にも存じ上げず…。
宣伝・広報において、作品に添えられているキャッチコピーが、「あの頃の私と君へ」。
このフレーズは、今回の映画製作の動機の一つともなっている武田監督自身の経験から生まれたものだそうだ。
また、キャッチコピーから思い起こされたのが、一連の岡田磨里作品群であった。『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』(監督・脚本:岡田麿里2011年)、『心が叫びたがってるんだ。』(2015)、『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018年)
そして、本作公開の3ヶ月前に公開されたばかりの『アリスとテレスのまぼろし工場』(監督・脚本:岡田麿里2023年)である。岡田麿里もまた、自身の十代の頃の引きこもり人生とその後のいくつかの転職、他者や「世界」とのコミュニケーションの困難さ、母親との確執の記憶をキーワードとして映像作品を生み出している点において、武田かりん監督との共通項を感じた。
映画の内容からやや逸脱することと、個人的見解である旨を承知で論を続けさせていただくことを重ねて記した上で論を勧めさせていただく。
決して今年(2023年)に限ったことではなく、得体の知れない不安感、喪失感、欠格感等々、社会全体を覆う不穏で閉塞感を伴った空気は、古くは身分制度、経済格差拡大、受験戦争、校内暴力、いじめの社会問題化といった具合に、収束するどころか、世代を越えて確実に現在進行形の社会の病巣となっている。
10代の子供たちの成長譚として語られるべきであるとされる、弾けるようなエネルギーの発露を描いた作品は枚挙にいとまがない。それと同様に自己の居場所を見失い、喪失し、迷い、将来に対して言わく言い難い閉塞感・絶望感(或いはまた絶望すら抱けぬ虐げられた環境に身を置く場合もある)現在を生きることそのものの息苦しさを扱った作品が支持を得ている印象がある。
不登校問題、青少年から中高年の引きこもり件数が未曽有の人数であるとの推計が劇的に報じられた記憶も新しい中、コロナ災禍に引き続き、国内外を問わず混迷を極める国際情勢のうねりがダイレクトに我が国の生活に影響を与える現在において、いじめ問題はいまだ継続し、児童虐待も凄惨な事件が報道される中、件数は一向に減少していない。
若者の自殺も高止まりを見せる中、武田かりん監督もメディアで語っているように、10代の死因の一位が自死であるという現実。ニーチェやハイデッガー、ガルブレイスの著書を引き合いに出すまでもなく、「世界」に対する欠格感、諦念、絶望を抱き、ここではないどこかに行きたいという願いや、今の自分は、本当に自分が望んだ姿・人生ではないという別の世界線への志向はより強く心を支配し始める。
人類平等、機会均等という金科玉条の理想の下では、効率性と生産性優先という、競争ないしは、椅子取りゲーム的社会規範の重圧の中、社会・人間性の多様性を受け入れるべきであるという様々な矛盾を孕む理念が声高に謳われる。
平等な世界の姿とは、果たして過ごしやすい平和な世界なのであろうか?
これは自論であるが、光に満ち溢れ、あらゆる不安や心配事、悲しみや喪失感、恐怖や病老死から解放された「天国」が果たして理想の世界であるのか?という問いかけにも通ずるものだ。あらゆる不幸が消失した世界では、不平も不満も不足感も存在しない代わりに、満足であるとか、充足感もまた存在しないのではないか?それどころか、闇や影が存在しない光に満たされた世界であるとしたならば、そこには、何も存在しえないということと同意なのではないだろうか?
世界には、戦禍であったり経済的理由であったりで、育児放棄され、食事どころかその日の眠る場所さえ確保できない子供たちも存在する。が、それに比して、この国で生きる大半の子供たちは基本的な衣食住が満たされ、昼夜を問わず戦闘機の爆撃や、武装勢力からの襲撃に怯えながら生活しているわけではない。そんな中で生きていながら、生きる意欲までを喪失させてしまう社会とは一体なんなのであろうか?それを社会病理という単語で一括りにしてしまうのはあまりにも大雑把すぎないか?
全社会一致的な常識であるとか、世間体であるとかの暗黙の了解事項・社会規範への反抗・疑念・破壊の末に、フラットな社会が建前となってしまったがために、世代間の知見の継承を瓦解させ、自己中心的な世界観のみを基準とする自己以外への猜疑心・疑念を生起し、実に些細な差異を見つけ出すことで、また新たな差別・区別を生み出す世界が生じてきたとは考えられないだろうか?しかも、そこに形成される「空気」は、確実に世代を越えて継承される遺伝子のごとく作用し続けている。
ましてや、それが、年齢も肉体的成長も学力も、家庭環境も、生育履歴も極端な差異の無い学校という「標準化・均整化された世界」に存在する子供たちの目には、微小な差異は絶望的なまでに巨大な差異に見えることであろう。
故に、周囲から浮いた存在にならないための処世術を手死できるか否かが、人生の主舞台である学校生活における「勝者」と「敗者」の存在を決定づけ類ことになる。
アイナについては、学校の怪談的な噂話として語られるのみであり、アン自身も、その決定的な真実を知るわけではない。直接的に描かれるのは金魚の死であるが、それは、まぎれもなく主人公の二人が対面している「死に至る状況」の暗喩でもある。そう、彼女たちにとっての学校の教室というのは、息をするのさえ苦しくてたまらないほどに閉じた世界なのだ。
狭い水槽の中、ゆるやかに身を浮かべる金魚(何者になるわけでもなく、ただ浮かんでいるだけの金魚と言ってしまえば、もはや奴隷どころか酔生夢死。そこいはもはや希望も絶望も何も無い虚無の世界に等しく感じてしまうが…)は、学校の教室という限定空間に押し込まれ、自我と自由を抑え込みながら、得体の知れない空気に身をゆだねるアンたちを表わしていると読み取るのが自然だろう。
そんなことを含み合わせて考えると、『ブルーを笑えるその日まで』という作品は、死そのものや、近しいものの死によって残された者に生じる喪失感、絶望感、諦念の物語であると同時に、死を意識することで、そこから転化して再生の物語(希望と言い替えるにはやや楽観的過ぎる印象もある)ともなっている。また、生きるも地獄、死ぬも地獄という、どうしようもないどん詰まりの状況においてもなお、生きることを諦めるのではなく、「生きねば!」とつぶやきながら生きていくことを選ぶという意味で、チェーホフ的でもある。
学校の屋上で遭遇して以降、愉しい時間を過ごす二人の邂逅が夏休みの終了と共に清算されることがアイナの口から予告される。いずれ訪れる別れの時を予見させるとともに、現在の時間にとどまることはできないという現実的で、幸福物語の持つ逆説的なメッセージを含む点で示唆的である。充実感を胸に、友人(物理的に存在する人間であるとともに、鑑賞者には、イマジナリーフレンドをも予感させる演出が見事だ)とともに過ごすこの世界は夢であり、夢から覚めること、即ち、「現実」と対峙すべき時が来ることを示している。それは、満たされた世界から去ることの辛さや哀しさを示すばかりではなく、自分自身が置かれている現状から、一歩を踏み出す勇気を持たなくてはならない・持たざるを得ないという絶対的な時間の流れお先にあるものを描いた作品でもある。
ここにおいて思い起こされるのが、宮崎駿の最新作であり自伝的要素を漂わせ、かつ、メインタイトルがそのまま作品内容を表現している異色作でもある『君たちはどう生きるか』と同様、映画の鑑賞者に対して、我々は、今現在自分たちが存在しているこの世界でどう生きるか?という問いかけの物語でもあることに気付くことになる。
そして、一歩を踏み出すためには、自らの立ち位置を確認しなければならない。それは、現在の自分が、過去の自分という基礎の上に成り立っていることの確認作業でもある。それは同時に、過去の自分を無かったことにはできないということも意味する。故に、今作において、主人公が教室で孤立し、孤独を感じる中で過去を振り返り、ここではないどこか別の場所を志向するのは、決して後悔のための振り返りではなく、未來に向かうための助走をつけるようなものだと考えられるだろう。
小さな水槽の中で揺蕩う金魚の姿を映し出すオープニングから、物語を紡ぎ出す主人公、しいては、物語そのものの奥底に流れる不穏な空気感を感じさせる。
教室という名の世界(学校というのは、小中高生にとっては、睡眠時間を別に考えれば、実の家族よりも長時間を過ごす空間であり、その影響は帰宅後にも及ぶと考えれば、世界そのものである)に疎外感を感じる少女は、雑貨店で万華鏡を受け取る。店内に入り、万華鏡を受け取るまでのプロセスは決してジュブナイルものにあるような冒険的でもなければ、決してドラマチックな演出がなされているわけでもない。言うなれば、近所の知り合いのおばさんからお菓子でももらうような感覚で進行する。
そして、ありふれた日常的なやり取りの中で受け渡される万華鏡なのだが、差し出された万華鏡を受け取る瞬間、或いはその直前、店主の問いかけに少女が応え、会話がなされた時点で、物語はファンタジーの世界に移行するのだ。万華鏡は、文字通りの物理的に扉を開くための鍵となると同時に、学校の教室の中という限定された世界から、学校の外の世界(この場面では、学校の同級生以外の人間)、そして異世界、時間を超えた世界への扉を開く鍵ともなる。それは、その後の物語のファンタジー要素の要となると同時に、物語終盤で、一つの謎を解くと同時に、もう一つの謎を映画の鑑賞者に示すことによってタイムパラドックス的ミステリー要素を表現する重要なアイテムともなっている。
この受け渡しに際して交わされる会話の含みは実に興味深い。店主は言う。「見たくないものは見なくても良い」「なんでも売っているが、命だけは売っていない」。その後の物語を楽しむキーワードであると同時に、監督が作品に込めたメッセージのひとつでもあるからだ。万華鏡を覗いた際に見える映像は二つとして同じものはない。言うなれば、学校内の人間関係の多様性、不可逆性、再現性の無さ等を示すとも考えられる。現在を生き辛いと感じるその感情さえも、一字の夢のようなものであるのかもしれないということさえも、言外に含んでいるとも受け取れるのではなかろうか?
人生は一度きりである。また、世界は同じように見えて同じではない。人によって世界の捉え方はさまざまであるし、同一人物にとってでもさえ、その日、その時の気分で世界の見え方は全く異なってくるのだ。
その後に描写される、キーホルダーを通じたクラスメートとの関係性が修復されるかもしれないという可能性を示すエピソードも、一度は、学校ごと全てを破壊しようとさえ思わせてしまう状況に陥った後、仮に関係性が修復されても、それは以前の関係と同じものなのか?という問いを投げかけている。
その過去の後悔や無力感、悲しみや辛さを乗り越えるためにはどうすべきか?という問いかけに対して、一つの指針を与えてくれる作品を思い出す。鴨志田一による青春ブタ野郎シリーズである。このシリーズもまた、十代の、多感な心が自分自身の世界における存在を喪失し、再発見する物語だ。
また、レイアウトや演出で目を引いたのは、天地を90度倒した横位置でのカットだ。このカットを目にする鑑賞者は間違いなく違和感を覚えるだろう。そう、その違和感こそが、アイナの存在の問題と、アンとアイナがともに過ごせる時間のタイム・リミットが迫っている中で、人夏の充実した時間を過ごす表向きの世界の裏側で、確実に迫ってくる別れの時への近づきを表しているとみた。日々の安定性は崩れ差し、不安定さが強調される。だがしかし不安定さとは、これ即ち、変化の兆しでもある。世界の真実に対する違和感を示しつつ、ここではないどこか、が、実は、既にもう始まっており、映画を観る者もまた異世界に片足を突っ込んでいることを示すのである。
物語の進行に伴い、アンは、もうひとりの主人公である不思議な少女・アイナと屋上で出会うことになる。現実の世界から異空間へというシチュエーションは、キャロルの『不思議の国のアリス』を思い起こさせるやもしれない。もし、国内外の映画を多数見ている方、或いは、今作の風合いを好む作品を複数観ているという方であれば、二人の少女が並び立つ映像に既視感を覚えた人もいたであろう。ファンタスティックでリリカルでセンチメンタルで儚げな印象を漂わせる二人の少女像。
物語の進行につれ、ミステリアスな雰囲気を色濃く滲み出す二人の並ぶ場面で感じられる距離感(物理的にも精神的にも)からは、岩井俊二監督作品のそれに通じるものを感じさせるだろう。まるで、花とアリスだ。
或いは、つい最近公開された最新作、『キリエのうた』で描かれる、ある種の諦念を基に生じる突き抜けた世界認識を含んだ退廃的な雰囲気を醸し出している。
『キリエのうた』は、絶望的なまでに繰り返される喪失の物語が語られる中において、夢と希望というか、暗く冷たい水の底から、はるか先に薄明るい灯明を見つけるようなエンディングに至るのだ。そういう部分もまた、『ブルーを笑えるその日まで』と呼応するものがあるのではなかろうか?もしかしたら、こういったものが、時代の空気感とうものなのかもしれない。
そして、アンとアイナの二人は、その人生における背景が似た者同士であると同時に、過去と現在、導く者と追従するもの、示唆を与える者と、知見を得る者という表裏の関係でありながら、のちに立場が入れ替わることになる。この点において、鏡合わせというか、一心同体とも言えるだろう。そして、二人の夏休みの冒険が始まる。そう、今作は、夏休みという期間限定の時間を共に駆け抜ける少女二人によるバディもの映画でもあるのだ。教室という名の限定された空間を飛び出し、輝かんばかりの一夏の経験として記憶されるであろう友情の形成によって、苦難を乗り越え、明日を生きようという、「なにか」をつかみ取るのだ。その「なにか」とは、夢や希望、或いは決心というような言葉に記してしまった瞬間に陳腐なものと思えてしまうのだが、そういったありきたりの言葉では言い表せないような「なにか」を発見することになる。
バディものといえば、前述の岩井俊二監督の『キリエのうた』、新海誠監督の『すずめの戸締まり』もまたバディものである。い『すずめの戸締まり』においては、ヒロインの行動を決定要因に恋愛感情が大きく作用している場面が描かれているが、『キリエのうた』、『ブルーを笑えるその日まで』、ずれも、年頃の少女を主人公に据えているにもかかわらず、恋愛要素が皆無というわけではないが、ストーリーテリングにおいて、主人公の行動を決定付けることさら詳細に描かれるほどには重要なものとしては描かれていない点も共通している。
今作における恋愛にまつわる事柄についての描写が皆無であることは特筆に値するだろう。アンとアイナがラストシーンに向けた決心をすることとなる背景にあるものを考えれば、焦点を当てるべきは恋愛事情ではないという事は明白であり、この思春期の少女を主人公とした作品のおいて恋愛物語をすっぱりと排除した演出は当然であろうし、潔さを感じる。
日常的な生活が、いつの間にか不可思議な世界に入り込んでしまうという構成は、まるで、筒井康隆や、今村夏子の小説を読んでいるかのような感覚を覚える。別ない方をすれば、我々スクリーンのこちら側にいる人間の日常生活と地続きの世界を描きながら、いつの間にか、スクリーンの中に繰り広げられる世界に引き込まれていくという構成は、個人的に好みであるし、実に見事な演出だと思う。
さて、ここで鑑賞者の中に湧き上がるであろう疑問について考えてみる。
果たして、アイナは校内の怪談あるいは、噂話のとおり、幽霊だったのか?
そのヒントは、作中における店主のセリフや、アンとアイナとの直接の会話、そして、エンドロールにある。
そして、アイナの正体については、明言は避けられているものの、作中で一部種明かしがなされている。
このあたりは、ホラー要素とファンタジー要素を持たせつつ、まさしく、正統派のミステリー作品を彷彿させる演出だ。ジャンル分けして鑑賞する作品を選んでいる方々にはなかなか届きにくい部分かもしれないが。
アイナは、夏休み期間中、アンと同じ時間を過ごしていることで、二人は同じ時間軸に存在していると同時に、異なる時間世界で生きていることが示される。そして、さらに物語中盤からクライマックスが近づくと、まさか!?の登場人物が現れることで、さらにミステリアスでタイムパラドックス的な要素が加味されることになるのだ。
アイナのその根源的な魂は17年前の世界にも存在しており、その17年前の仄暗く霞がかったような教室という閉鎖された空間に囚われたままで、救いの手が差し伸べられるのを待っているのだ。
そう、アイナは、息苦しい世界の中、ここではない、別の世界に連れ出してくれる存在・機会を待っているのだ。このあたりが、まさしく、武田かりん監督の人生そのものだろうと思われる。現在の映画製作という社会活動の最前線に身を置きながら、その原動力ともなっている十代の頃の魂は決して変化することもなく、もちろん消え去ることもなく、蓋をされた状態のままで、武田監督の胸中に存在するように、この先の人生にもずっとついて回るものなのだ。
そう、過去は完全に忘れて去ってしまうことができないとなれば、蓋をしてやり過ごすか、他のことで上書きをするしかない。が、それでも、辛く悲しい記憶や経験は無かったことにはできないということでもある。
実は、アイナは校内で噂される自ら命を絶った生徒の幽霊なのではなく、過去に心捕らわれた過去の幻影である、という解釈が可能になる。では、現在、アンとアイナに優しいし線を送る図書館の司書は何者であるのか?という疑問が湧き上がる。彼女もまたラストシークエンスにおいて、アンとアイナの現在の関係に重要なキーとなるからである。
私は考える。もしかしたら、実際に、過去のある時点でアイナが屋上から飛び降りた世界が存在したのであろう。そして、その魂を強力に引き留める学校の教室と屋上には、『アリストテレスのまぼろし工場』と同様、教室に閉じ込められたアイナの精神がアルバムのように記憶されている。そこに、未來の世界から案が駆けつけることでアイナを救い出す。その後、アイナもまたふしぎの店で万華鏡を受け取るのだ。そして、十数年後の世界で、かつての自分と同じ境遇に身を置くアン、まぎれもない自分自身の命の恩人が思い悩んでいることを察知し、キーとなる万華鏡の時空を超えた共鳴によって現在の学校に姿を現すのである。
そして、夏休みを共に過ごすことで、アイナは再び、過去に戻ることになる。そこは、昨日までで自分がいた暗くくすんだ世界とは異なる世界だろう。もちろん、生きることを諦めなかったアイナは、この世界で図書館司書として働くことになる。そして、過去にかつて同じ時間を過ごしたアンの姿を、現在の(司書にとっては未来である!)図書館で見ることになるのだ。
繰り返しになるが、狭く息苦しい濁りきった水槽の中でただ身を浮かせてるしかない金魚とは、アンであり、現在この国で得体の知れない不足感や孤立感の中で生きる若者の姿そのものだ。
そこで世界線はもう一つの回答を準備することになる。それこそが、ラストシーンで、過去を思わせる教室の中で独りうなだれる少女が、空気がよどみ、くすんだ世界の中で正気を失った状態で席についている中に駆け込み、その手を力強く握りしめ、教室の外に連れ出すアンが現れる世界である。
それは、過去のアイナにとっての未来のアンが、過去のアイナに生きる指針を与えるという世界である。この理屈だと、万華鏡を手に入れる前に、未来のアンに救われるアイナと、万華鏡を手に入れた後に、未来のアンを救うために現れるアイナという二人のアイナとか存在してしまうようにも思える。が、そこは上手くできたもので、多元宇宙論とタイムループ物語の設定が生きてくる。では、現在のアンに自分自身の持っている17年前の
では、司書であるアイナと17年前のアイナとの関係はどう解釈すべきか?
万華鏡を渡した、司書としてのアイナは果たしてどちらのアイナなのか?答えは明瞭である。
その種明かしは劇中では語られていないが、先の青春ブタ野郎シリーズの『夢見る少女編』における解釈のように、多元的な世界を想定するとしっくりくるだろう。
アンと過ごした夏休みの思い出を胸に、17年前の世界に戻った、自死を選ばなかったアイナである。アイナにとっては決して順風満帆とは言えないであろうが、世界を生き延びて、司書になる。
過去の自分の境遇を変えることができない現在の司書アイナは、その過去を心の奥底に収めたまま、アンが未来から過去の自分を助けに来てくれたことに感謝し、未来のアンを救うために時を超えるのだ。そう、現在のアンが、過去に行ってアイナの手を引くという描写は、実際に過去の世界に移動したともとれるが、もしかしたら、現在の司書アイナの心の奥底に閉じ困ったままになっているアイナの記憶を現在の明るい世界に引き出したということなのかもしれない。
過去のアイナが万華鏡を手に入れるタイミングとしては、現在のアンの万華鏡が壊れてしまった瞬間に、過去のアイナもまた万華鏡を店主から貰い受けるのだと考えるとどうだろうか?故に、万華鏡、即ち、伝えられるべき心のメッセージのメタファーである万華鏡は、基本的に一つしか存在しないことになる。
そして、果たして、司書である彼女には、アンとともに図書館を訪れるアイナの姿(=過去の自分自身でもある)が見えたいたのだろうか?
劇中の描写から推測すれば、アン以外の人間にアイナの姿は見えていないと解釈するのが妥当だと思われるが、彼女こそ、アイナの17年後の姿だとするならば、見えていたと解釈するべきだろう。
ここで、司書アイナが古びた万華鏡をアンに託す場面が重要となる。未来を知っている司書にとっては、ある意味過去でもある現在、まさに、今こそ、手を差し伸べるときであると判断したからこそ、手渡すのだ。
万華鏡が納められた箱の中には、アイナが17年前の世界に持ち帰った、現在のアンとともに撮影したプリクラ的な証明写真が入っている。
その出会いによって、学校生活を乗り切り、アンの時代に共に過ごす経験を経て、再び過去の自分の世界に立ち戻ったときのことを思い出したはずである。そこで、大切にしまってある万華鏡を取り出したはずだ。
図書館でアンの存在に気付いて、彼女もまた、封印することで無かったことにしてきた(或いは、その後、いくつかの世界が分岐することで、この世界で生きている彼女にとっては、実際には無かった世界になっているかもしれないが)過去の自分と対峙することになる。
そう、それは、万華鏡を手に入れ、未来の世界でアンに出会う前の自分自身、疎外感、孤独感に押しつぶされそうになっていた頃の自分自身の姿である。だからこそ、思い出の8月31日の夜、学校の屋上での出来事も知っていたのだと考えるべきだろう。アンに学校外の世界、教室の中の論理以外の論理と視点を授けるべく未来にやってきたアイナは、二重の視点で現在進行形の世界を見ることになる。過去の自分自身が、未來の世界、未來の自分自身の目の前で、自分の精神の救世主をまさに救おうとしている場面に遭遇するという感覚はいかなるものであろうか?
助けられた側が、次は助ける側に回る。これこそ、武田監督が今作に織り込んだメッセージの一つなのだろうと思う。決して、夢を持てとか、生きてさえいれば将来は大丈夫だとか、いう安易で無責任な励ましの言葉を与えるものではない。必ず誰かが手を差し伸べてくれるということを言うわけではないという点においては、至極現実的で残酷なのかもしれない。
が、特にこのコロナ以降の3年間の世界情勢を見るだけでも、世の中が善悪二元論で片付けられるほど単純な構造ではなきことは明らかであるし、理想だけで山積する問題がすべて解決するわけでもないことは明らかだ。だからといって、夢や希望や理想を持つことを辞めてしまったら、それは、もはや、生きながらにして死んでいることと同じではないのだろうか。
製作が現実化したものの、資金その他の問題により一時は企画が頓挫してしまい、パイロットフィルム撮影に切り替える事態に陥ったと聞く。コロナ災禍の活動制限真っ最中のこともあり、拙聞にして、企画発表も、クラウドファンディングも知らないままに今回の鑑賞となってしまった訳だが、とてつもない秀作に出会うこととなった。DVD等のビデオグラム企画があればぜひ応援したいものだ。
武田監督直筆の絵コンテはそれだけでも一冊の書籍になりそうなほど魅力的に描かれている。が、何よりも、最終稿を手直しして、小説として刊行できないものだろうか。ファンタジーでもあり、ミステリーでもあり、ジュブナイルとしても素敵な作品に仕上がること間違いないと思う。KADOKAWA、文藝春秋、新潮社の担当の方、いかがだろうか?
エンディングに流れる主題歌が監督の思い入れのあるRCサクセションの『君が僕を知ってる』なのだが、歌詞が、まさしく、アンとアイナの関係性を映し出しており、なるほどと感じた。が、どうしたわけか、アニメ版映画『ジョゼと虎と魚たち』のエンディング主題歌となっている「蒼のワルツ」(作詞・作曲・歌 - Eve / 編曲 - Numa)が脳内再生されていたのだった。
幸いにも、作品の評判は好調だそうで、上映期間延長も決定。大阪を皮切りに、全国展開もいよいよ現実味を帯びてきた。ぜひ、一度、劇場でご覧になられることを願います。
『ブルーを笑えるその日まで』公式HP
https://www.bluewo2023.com/
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https://twitter.com/bluewo2022
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