映画『あんのこと』入江悠 (監督・脚本)鑑賞雑記 20240623
映画『あんのこと』 (入江悠 : 監督・脚本)を鑑賞。
一言で表現するならば、これほどまでに、やるせない作品が存在するものなのか?というものだった。
物心ついた頃から、あらゆるものを奪われ続ける環境下にあり、もはや、自分自身が夢も希望も生きる意味さえ収奪されている存在であることにさえ思い至らないという、絶望よりも深い漆黒の闇のごとき人生をさまよう物語だ。
折しも、コロナウィルス感染拡大防止策が国家レベルで進行し、言うなれば、9・11以降における社会構造の変化以上に急激な変化をした結果露呈した「社会構造・社会体制」そのものの脆弱性を描き加えることで、社会的救済手段さえも、緊急時にどれほどの味方になってくれるのか?という疑問をも投げかけている。
物語が進むにつれて、それは、まさに、奇跡のような出会いによって、そんな、暗闇の中、ほのかに光る灯明のような、希望のような(それでいて、いわゆる世間一般の、平均的な目線で見ればそれさえ、決して恵まれたものではないであろうはずの世界の中でもなお)、生きていることの実感ともいえるような瞬間を見出したのもつかの間、それらを根こそぎ奪われるのである。
それも、その希望の光を与えてくれた人々の手によって、奪われるのだ。その壮絶さは、悲劇であるとか、残酷であるとかではなく、もはや呪いのごとき熾烈さ、残酷さである。
そして、この作品が世に出るきっかけとなった事件を知る観客である我々は、劇中で描かれる、畳みかけるような収奪と損耗の描写の連続それ以上に壮絶な現実を知ることになる。それは、この作品が純然たる創作ではなく、この現代の日本の社会のどこかの地で、いま、まさに、今日も、この瞬間に、現在進行形で起きている問題であるということだ。
そして、この映画を見た観客の心に、痛烈な印象、感情を惹起させることは間違いないであろう。
経済的・社会的格差であるとか、精神的・社会的・人間的分断であるとかいった定型句で語るには収まりきらない、底なし沼に足を撮られた時のような感覚を持つだろう。ラストシーン、編隊で飛び去るブルーインパルスが蒼空に見事な白煙を曳きながら飛び去って行く。この一大イベントがどういった政治的意図で実現されたかを思い出せば、これもまた、白煙によって分断される青い空が、世間との断絶が決定的となった彼女の置かれた境遇を暗示するようで、やるせないことこのうえない。
物語の最後の最後に、かすかな希望のような、未來のようなシーンが描かれる。が、それらを、希望と呼ぶには、あまりにも切なく哀しい物語なのではなかろうか…。だが、切ないからこそ、より一層、主人公が歩んだ人生を振り返り、その人生を意味あるものにしなくてはならないという制作側の熱く強い想いの帰結なのかもしれない。
それは、図らずも、コロナウィルス感染拡大の世界的騒擾と入れ替わるようにしてロシアによるウクライナ侵攻が起こる。世界のパワーバランスを大きく揺るがすこの戦争の中で生きる我々という存在を考える時と同じ種類の感情でもあるだろうか。
きっと、自分自身は、今、何をすべきなのか?自分に、なにかできることがあったのではないか?という、後悔とも、罪悪感とも表現し難い、黒く、心の表面をどろりと覆い尽くし、長くあとを引く複雑な感情である。
観ておくべき作品である。
映画『あんのこと』 (入江悠 : 監督・脚本)
公式HP→ https://annokoto.jp/
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?