『文藝春秋』への寄稿によせて
2019年12月10日発売の『文藝春秋』2020年1月号に寄稿しました。タイトルは『元製薬会社員の僕が「偽薬」を売る理由』。
『文藝春秋dijital』の方でも12月26日に公開されるようです。
公開されました(2019/12/26)。
本編は雑誌またはオンライン記事をお読みいただくとして、紙面の都合上どうしても省かざるを得なかった部分をおまけ的にnoteで公開します。
薬効心理学と進化心理学
拙著『僕は偽薬を売ることにした』を刊行後、ありがたいことにいくつかお便りをいただきました。
ある薬学者からは、「薬効心理学」の必要性を再認識したとお伝えいただきました。
薬効が心理的な状態に左右される。分子薬理学という物質重視の学問が主流の薬学界においては、この発想すら異端と判断されるようです。現状を変えるには、より深いプラセボ効果研究が必須でしょう。
プラセボ効果研究は人間自体の理解を深める鍵にもなります。
生物の構造や機能が進化的適応によって形成されたとする進化生物学。また動物の心理面にも進化の論理を適用する進化心理学。
規範を重んじ、文化的儀式の効用を信じやすい人間の心理がなぜ・どのように進化したかを解明することは、プラセボ効果を理解する手立てとなります。医療は文化的に形作られた儀式体系だからです。
文化の所産を信じることは、昔も今も生きやすさと直結しています。信念と生理作用をつなぐプラセボ効果はこれからも医療の中心にあり続けるでしょう。
また応用としての進化医学は、薬効心理学という仲間を得てますます発展するだろうと予想します。
この記載はプラセボ効果についての記載もある『文化がヒトを進化させた―人類の繁栄と<文化-遺伝子革命>』を参考にしました。
MUS、MUOS
またある歯学者からは、医学的に原因を説明できない症状に対してプラセボ効果を応用した治療が適用可能かもしれないとお伝えいただきました。
「不定愁訴」など、これまで患者側の精神的問題として軽視されがちだった症状は、まさに医学的に説明できないからこそ医療の枠外へと追いやられがちだったように思われます。同じような境遇を有するプラセボ効果とともに、医療の表舞台に上がる機会がようやく来たのかもしれません。
こうした流れを受け、患者側の問題を強調しがちな「不定愁訴」という呼称が改められようとしています。
MUS(Medically unexplained symptoms/syndromes:医学的に説明できない症状/症候群)、そして特に歯科の場合にはMUOS(Medically unexplained ORAL symptoms/syndromes:医学的に説明できない口内の症状/症候群)といった風に、医学的な説明できなさを認める立場が明確にされています。
医学的に説明できない治癒現象であるプラセボ効果との関連性も、こうした呼称の変化により見えやすくなるかもしれません。
高次元科学
プラセボ効果研究は、それを排除しようと試みた旧来の科学の枠組みに抵触するものです。こうした動きは全く別の分野であるAI(人工知能)研究からも生じています。
AIのコア技術である機械学習がもたらしたのは、理解とは何かという問いでした。AIは人間の理解を超えた理屈で判断を行える可能性があるためです。
この問いは科学にも差し向けられ、複雑な物事を複雑なままに取り扱う次世代の科学として「高次元科学」が提唱されています。
(東大・松尾教授の発表タイトル「理解するとは何か?-- 高次元科学と記号処理」。発表スライドもリンク先で公開されています。)
旧来の科学では取り扱いが難しい健康やプラセボ効果を高次元科学の研究対象とすれば、不定愁訴の医療上の扱いを改善させたり、慢性疾患に対する新たな治療法を提供したりすることができるようになるかもしれません。
公理的科学論
高次元科学に対して、現行の科学はレトロニムとして「低次元科学」と呼べるものです。低次元科学の特徴は、プラセボ効果のような説明不可能な現象をその説明体系から排除しようとすることです。
一方、高次元科学は、論理的には説明できなくとも有用な方法があるのであれば、説明はさておき積極的に利用しようとする立場です。
ここにプラセボ効果と高次元科学の親和性を見出します。
そしてまた、プラセボ効果を「公理的科学論」という新たな取り組みの中に捉える試みは、低次元と高次元、それぞれの科学の特徴を公理から捉える可能性につながると考えています。
おわりに
偽は人の為と書きます。ニセモノだからこそ、できることがあります。偽薬の必要性やプラセボ効果研究の可能性を共有できれば嬉しく思います。
薬効心理学、進化心理学、高次元科学、公理的科学論に興味のある方はぜひ議論にご参加ください。よろしくお願いします。