私は私であらざるをえない【自動記述20241223】
午後11時18分
終わりから始めた人は、やがて自分がそもそも振り出し戻っていたのだということに気づきました。
終わりから始めた人はだから振り出しの光景をさかのぼって思い出したあと、ふたたび終わりにしようと線を引きました。
引いた線の向こう側へ自ら飛び込むことで二度目の終わりを迎えた人は、それでも自分がふたたび振り出しへ戻っていることに気づきました。
さらに終わりにしようと線を引いて、引いた線の向こう側へ自ら飛び込むことで三度目の終わりを迎え、四度目、五度目、六度目と繰り返していくと、終わりから始めた人の生はどんどん厚みを失っていき、数百、数千と繰り返していくとほとんど刹那にも等しいくらいになりました。
終わりから始めた人はそうして単細胞生物になりました。
極度に短い寿命のなか、生まれては滅し、生まれては滅しを繰り返していくだけの存在と化してから、何かを望むこともなくなり、生きるという実感さえなくなり、大変具合が良いのでした。
―――――
――太陽が巡り、月が巡り、昼と夜とが入り乱れる世界の卑しさを語るこの神話はかつて科学というものが隆盛を極めた時代、主に子どもに語り伝えられた童話というか説話のようなものだったらしい。
そんな童話から一つの思想が生まれ、宗教と化し、人々の争いを誘い、集団自決を誘い、世の人口を左右するほど敷衍したというのは驚くべきことのように思われる。
あるいは驚くべきこととそれを見なさず、実のところ人間に定められたものなのだと捉えてみると、われわれというのはその生まれからして誤った存在なのだと言うことになる。
そう言いたくなる、というのが正しいところかもしれない。
われわれに膨大な時が与えられていたその昔、人々は自らの生の終焉を自らで決定することに大変難儀したとのことである。
自然死を待つのにはあまりに長い寿命を得た結果として人々は、怠惰で堕落した、オマケのようなものと化した、噛みしだいて味のなくなったガムと化した人生をどのようにして遺棄するか悩みに悩んだということだった。
手当たり次第に見知らぬ人を葬る慈悲深き慈善事業に従事する者もなかには居たが、そんな好事家は多くなかった。
街なかのいたるところにカプセルが設置され、内部のボタンを押せば特殊なガスによって苦痛なく生を終わらせることができるような施設が国家主導で運営されていた。
煮炊きに使うのとは別に、自決用のガスを供給する管が設置された都市も少なくなかった。
そうして人々は一人、また一人とこの世を去っていったが、去った先でふたたび始められたのではたまったものではない。
あるいはわれわれは本当に、無限の輪廻に囚われたまま、ここから抜け出すことができないのかもしれない。
そんな恐怖を実感として抱くのに足るくらい、少なくとも私は私の生を繰り返してきた。
未来永劫に渡って私は私であらざるをえない――この恐怖がどのような恐怖にも増した恐怖であることを、いやこの恐怖こそ唯一にして無二であり、恐怖の根源であることを、今となっては身に染みて感じている。
この恐怖からは、どのような仕方でも逃れることはできない。
解脱?
そのようなものは幾度も試み、無駄であることを幾度も実証した。
私は私であらざるをえない――この恐怖は今やすべての人にとっての、各々の恐怖である。
いやそうではない。
この恐怖は、私にとってのみ知られうる、他人には決して知られえない恐怖であり、まさにそうであるからこその恐怖なのだ。
午後11時36分