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照応【自動記述20241202】

午後11時20分

 淡い色の合間に生まれたひかりの中を泳いでゆく。

 何もない空間に隙間が出来、そこに何かが生まれる。

 生まれた何かが拡散し、世界を塗り替えてゆく。

 いや、恐らく初めて塗ってゆくのだろう。

 そうして三次元のキャンバスのうえに色がついてゆく。
 色づいたキャンバスは無数の音となって拡散する。
 それから色。

 音が波となり時間を生むと、陽光があちこちで屈折してジグザグに輝く。
 世界の表情。
 あるいは亀の甲羅。

 何もないのではなく何かがあること。何かがあると述べた瞬間に何かがあることになるという論点先取が、結局のところものの初めには必要らしい。

 論点先取の世界はだから夢の世界に等しく、だから世界とはそもそもが夢のようなもので、例えばこの右脇にある用水路など実のところ存在していない。

 そこを流れる水なども存在しておらず、そこにいるであろう微生物や藻やエビや小魚やゴキブリなども存在していない。

 そしてこの私も――と言いたいところだがそれを言うにはいくつもの言葉を連ねる必要があり面倒だ。

 この面倒を、いったい誰が生み出したのだろうかと犯人捜しをする人生。

 陽の光に。
 水の流れに。
 空の青さに。
 人の言葉に。
 葉のゆらめきに。
 風の生暖かさに。

 何もかもがわからないという前提を忘れて何かをわかったようなふりをして生きること。
 何もかもわからないという前提を隠蔽することで行うコミュニケーション。
 服を脱ぐように役柄を脱ぎ捨てて軽やかに生きることを夢見ながら生きること。

 それから私は、それから私はと書いてから頓挫する。
 頓挫したところに閃く一瞬の光。
 火打石のごとくにこの意味の暗がりを照らす、存在の光。
 今となっては失われた、あるいは金輪際灯ったことのない光。
 何度も石を打ち続けて、だから何度も頓挫し続けることでこの世界を照らしてゆく。

 それが不毛な行いだというのは、そちら側の論理ではないか。
 そしてそもそも論理というのはこちら側のものである。

 だから論理などなく、あるのはただこの、これをおいてほかにない。

 単純な真理に気づくことは氷雨に打たれることにも等しく、この肌を冷やかすことにより現実を回帰させる。

 現実? 
 手垢の付いた概念の援用。

 この世において手垢の付かない概念など概念である以上ありえず、だからそれを突き崩すためにこのような馬鹿げたことをせざるをえない。

 それは悲しみ? 
 愉しみ? 
 諧謔? 
 あるいは。

 何もかもを壊したい、そう思ってあたりにあるものというものをてあたりしだいにこわしてゆくと、てがこわれ、はだがさけ、あたまがくるい、そうしてせかいはくらんでゆく。

 くらむことによってあかるんでゆく。

 そうしてせかいはほんとうになる。

 ほんとうになったせかいのなかでただひとりせかいのげんてんとしてわたしはわたしじしんがひうちいしとなってしゅんかんのえいえんをてらしだしてゆく。

 それがわたしにかせられたことなのだとじぶんにいいきかせることもなく、ただただ、ただたんに、てらしだしてゆく。

午後11時33分

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