天然ものと養殖もの

 こないだふと思ったのだが、カフカが「天然」なのに対して、ブッツァーティは「養殖」という分け方もいいかもしれない。……と、思ってみると養殖/天然という対立軸で作家あるいは作品を分類することもある程度できそうな気がする。例えば最近読んだ山尾悠子「飛ぶ孔雀」は明らかに天然だ。また、最近読んだ円城塔「文字渦」もまあ天然だ。
 何をもってそう分類できるかというと、「創作における自覚」と言える。その作品で何を描きたいのか、どう展開させたいのかを書き手自身が十全にわかったうえでうまく統御して書かれたような作品は「養殖」ものに分類される。他方で、書き手自身自分が何を書いているのか完全にはわからないまま、いわば作品そのものに振り回されるような悪戦苦闘の跡が見られたり、さらっと書いているようでいてその裏に大いなる存在が暗示されたりする作品は「天然」ものに分類される。養殖ものは脂の乗りもよく、大体が美味く、安定的に供給されるのに対して、天然ものはともすると脂の乗りが悪かったり、そもそも通常の流通に乗らないような珍種だったりと品質にバラツキがある。しかし養殖ものがお決まりの美味さを越えないのに対して、天然ものはときに養殖をしのぐほど美味かったり、そもそも美味さの新たな概念を形作ることを迫ってきたりする。
 どちらが良い悪いという話ではないが、想像を絶してくるのは天然もののほうではある。

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