
野辺を行く【自動記述20241228】
午後11時11分
枯れ葉の堆積。
あらゆる物事の停止。
水の流れは流れのままに差し止められて、
雲は空に釘付けられて、
空気はそのまま空間に押しとどめられて、
落ちるものは落ちるままとどめられた。
鐘が鳴り、
鐘の音が留まり、
留まったままの音が空間に釘付けられた。
あるいは時間に釘付けられた?
私は私が留まり、
空間に、
時間に、
釘付けになった。
川原の石ころを拾う遊びは楽しい。
それでも川原の石ころは決して拾ってはならない。
だから私は川原の石ころを眺め、それを拾う自分を想像することで心を休めることになる。
差し止められたこの空間、時間においても。
山をくぐる川があるらしいと噂に聞いて、川を辿っても辿り着かないから、嘘なのかと思っていたのだが、さらに聞くところによると、それは山のほうから探さないとたどり着けないらしい。
川は初めから終わりまでつながっているのだという常識が先入観となり、山をくぐる川というあり方を眩ませているらしい。
そういうことならと私は山のいただきへと登って、そこから道なき道をくだりながら探しているのだが一向に見つからない。
あるいはその噂自体が嘘なのではないかと思ったこともあったが、しかし露出した岩肌に耳を付けるとどこであろうと川の流れる確かな音がする。
空を見上げるといつも飛行機が飛んでいる。
嘘である。
飛行機など飛んでいない。
飛んでいるのは鳥くらいのもので、大きさはまちまちであり、時折飛行機かと見まがうくらい大きな鳥が飛んでいる。
そんなものは見たことがないと集落のものに言われたが、それと同時に、見たことのないものを見るというのは比較的よくある話であるとも言われた。
柿の木に実がなるころには、柿の木に実がなる頃にのみ姿を現す集落もあるというのだから信じるのに値するのかもしれない。
なぜかはわからない。
だから私は秋には辺りを歩き回り、その集落というのを探すのだが辿り着いたためしがない。
辿り着かないことをもってそんな集落はないのだと結論付けるのは尚早というもので、じっさい私の世話になっている集落はその「柿の木の集落」との交易がある。
交易があるのだから存在すると見なすのが自然で、であるのなら私は決して辿り着くことができないが人によっては難なく行き来できる集落ないし場所ないし人々がこの世には存在するのだと捉えるのが自然というものであろう。
あるいは山をくぐる川というのもその類の形象なのかもしれないと、差し当たりは納得することができる。
そしてそんなもの、この世には珍しくもない。
ここからはるか海を隔てた向こうの陸地というのだってそれに該当するものであって、船で漕ぎだしたところでそんな陸地をついぞ目にすることなくUターンして帰ってくるか、悪くすると海の藻屑と化して永久に返らぬことになる。
だからこそ。
ある種の山菜が現実を覚醒させてこの世のすべてを明るみに出すなどという眉唾の話だってちょっと信じたくなるものではある。
先端がぐるっと巻いていて、
じめじめしたところに生えていて、
手折るとぽきっと小気味よい音がする、
緑色の、
つやつやしたその植物。
それも私は山を行くとき常に探しているのだがまだ見たことがない。
あるいは私の眼には見えないようにできた植物なのかもしれないが、あきらめるのはまだ早いだろう。
n歳の私に見えなくても、n+1歳の私には見えるかもしれないのだから。
そのような可能性はすべてにおいてあって、
だから山を穿つ川も、
海の向こうの大陸も、
柿の木の集落も、
いずれ私は辿り着くことができるかもしれないのだ。
そのような希望を持ちつつ、この膨大な野山を巡るのは楽しい。
午後11時26分