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そして私は鉱物になることを決めたようだった【自動記述20241219】

午後10時54分

 どこから始めてよいのかわからないときは、とりあえず足を前に繰るのがよい。

 足を前に繰るともう何事か初めていることになるし、意味というのは結局後からついてくるものだろうから。

 そのような仕方でこのようなことを試みているわけではあるが、果たしてこのようなものは意義のあるものなのかという疑問が当然湧く。

 次いでものを書くのにあたってそもそも意義などというものが必要なのかという疑問が湧く。

 次いで生きるにあたってそもそも意義などというものが必要なのかという疑問が湧く。

 さらには疑問が湧いたところでそれがどうだというのかという疑問が湧く。

 それら湧いた疑問が泡となって水面へのぼって弾けた頃合いで、眠気が訪れる。

 眠気は私を眠りへと誘う。
 眠った私は私と接続を失って、そうして初めて生きたことになる。
 生きるということは接続を失うことで、だから生きるということは死ぬことにも等しい。

 このような考えをひとたび持ってしまった人間にとって、常世とは死んだ世界にも等しい。

 だからそろそろ生きた世界へ行こうと考えている。

 生きた世界へ行くのにはどうするか。

 まずは呼吸を止めること。
 なによりも呼吸を止めること。
 仏陀がなぜ呼吸に目を付けたのか、考えてみたら分かることで、呼吸とはすべての生物に課せられた最大にして原初的な「卑しさ」だと言える。
 呼吸を止めることを目指して今後活動していこうと思う。

 そうするとまず以て肉体が滅ぶだろう。
 そうすると常世においては死んだも同然の存在となるだろう。
 そこに至って初めて、私は、生きた、生まれた、と言えるような気がする。

 今私は死んでいる。
 そしてこれから生きることになる。
 生きるためには呼吸を止めることが必要だ。

 この結論に至ったものは、この世においてそれほど多くはないのかもしれない。

 ペソアは恐らく分かっていた、呼吸の卑しさについて。
 あるいは両生類はギリギリのところで折衝しているのかもしれない。
 魚などどうだろう、つつましやかな生き方をしているとは言えないだろうか。
 石ころなどどうだろう、完璧である。

 石英や塩やダイヤモンドや黄鉄鉱やその他鉱物に惹かれるのは多分、彼らが、呼吸を伴わないのにも関わらず自然の無法規とは一線を画する整った形態を取るからだろう。

 彼らはもしかしたら、呼吸を止め、解脱し、悟りを開いた人間の姿、なのかもしれない。

 樹木に惹かれるのも恐らく同じ理由だろう。

 というわけで自分は生来、呼吸を辞めたがっているように思われる。

 自分は生来、人間ではないように思われる。
 人間として生まれついていないように思われる。
 場違いに思われる。

 さようなら、さようなら。

 みなさまさようなら。

 そうしてまた会いましょう、美しく整った無機的な形態として。

 さようなら、さようなら。

 そうしてまた、時の留め置かれた瞬間の永遠でお会いしましょう。

 だから、さようなら。

 午後11時5分

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