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写身 異文一

 ある男が用足しによその集落をたずねた帰り、偶然女房に出くわした。山で山菜を取った帰りなのか、籠を背負って道を歩いていた。声を掛けようとしたがふといたずら心が湧き、よしここは一つ驚かしてやろう、とそのまま後をつけていった。ところが後をつけていくうち、どうにも女房が女房に見えなくなっていった。あれは本当におれの女房だろうか、よく見りゃ別人ではないか、しかし考えてみれば、おれはあいつの後ろ姿なんぞこれほどしっかり眺めたことがあっただろうか、いや前姿だって、顔だって、そんなにまじまじ眺めるもんじゃない。そうしているうちに日は傾き、空は紫紺に暮れていった。ちょうど家の裏手の山道に出ると、男はそのまま女房の姿を目で追った。目で追う先には我が家があり、そして当たり前のように戸を開け入っていった。なんだやっぱりうちのもんか。
 それから男は安心して山道を下っていったが、薄暗い小道の奥に一人、どうも先をゆく者がいる。追い越された覚えはないんだが、誰だろう、うちの集落へ降りていくぞ。そこでふたたび後をつけていくと、山道の終わり、西日に照らし出された横顔がちらと見えた。や、あれはおれではないか、いやしかし、おれはおれの横顔なんぞ見たためしがないし、第一そんな馬鹿なことがあるものか、確かに背格好はそれらしい、それにあいつが着ているあの着物も、どことなく見おぼえがある、しかし何かの間違いだろう。そうしているうちに男の似姿は家の戸を開けて、当たり前のように入っていった。続いて男が戸を開こうとすると、重いのだか、つっかえているのだか、びくともしなかった。おおい、おれだ、開けてくれ。いくら叫んだところで聞こえないようだった。よその家へ行ってみても同じことだった。その晩、男は自分の家の軒下で横になって夜を明かした。次の日の朝、家の戸の開く音がしたので見てみると、そこにはまぎれもない自分の姿があった。やっぱり昨日の夜のあの男は、おれだったんだ、しかしそうなると、おれはいったい誰なんだ。
 それから男は女房を見つけ、話しかけたりなどしてみたものの一向聞こえていない様子だった。それどころか目の前に立ってみたところでちらとも目線が合わなかった。誰に試してみても同じだった。また不思議なことに、鍬や鎌といった道具はおろか、一枚の木の葉でさえ持ち上げるということができなかった。思い起こして見れば、昨晩からなにも食べていないのに腹も減らなかった。暑くも寒くもなかった。どうやらおれは幽霊になっちまったらしい、さてどうしたものか。男はあれこれ考えた、そして山の社にお参りに行った、坊主なら見えるかもと寺をたずねた、幽霊やら妖怪やらの話をよく語って聞かせる集落の婆のところにも行ってみた、しかしすべてがむなしく終わった。一日また一日と日が巡った。
 ある時、似姿が畑仕事から帰ってきたところを見計らって、開いた戸の隙間からするりと家のなかに入った。すると背後でひとりでにぴしゃりと戸が閉まった、それから履物を脱いで家に上がると、確かな畳の感触があった。おおい、おれだ、帰ったぞ。あらん限りの大声で叫ぶと、女房が飛んできた。
 男はこれまでのことを女房に、そして親しい者に語って聞かせた。幽霊になると腹も減らぬし寒くもない、それに誰にも見られないというのも悪くはないものだ。などという調子で呑気に語ったものだから、同じことを試してみる者がぽつぽつ出た。そうして成功した者が、これまた呑気な調子で周りの者に語って聞かせると、やがて噂は集落中に広まっていった。家の者に気づかれぬよう後をつけ、帰宅を見届けたのち、誰とも会わず森の小道へゆく、誰そ彼時になると小道の奥に似姿が現れるから、これについてゆき帰宅を見届ける。また、もとに戻りたければ、似姿が家の戸を開けた頃合いで似姿よりも先に家に入ればよい。――後に「写身(ルビ:うつしみ)」と呼ばれるようになったこの術に成功した者の話によると、だいたいこのような条件であることがわかった。
 写身は集落で流行した。何か辛いことがあると写身を行って幽霊となり、似姿にすべてを任せんとする者が現れた。特別辛いことなどなくとも、興味から写身を行って気ままな幽霊暮らしを楽しむ者が現れた。遊び盛りの若者たちが、仕事に疲れた男たちが、家事に疲れた女たちが、日々の暮らしを放り出して、ひととき自由の身になるのには、格好の機会だった。とはいえあまり良い目で見られたものではなかったので、皆ひそかに行なった。だから写身を行う際に、写身を行うことを家の者に告げない者がおり、また似姿から戻ったときに、似姿から戻ったことを家の者に告げない者もいた。そうしてぽつりぽつりと写身を行った者の話が出るたび、自分が誰かの幽霊に覗かれているのではないかという疑いを抱く者が増えていった。さらには家人が実は写身を行なった後の似姿なのではないかという疑いを持つ者が増えていった。また悪いことに、自分自身がじつは写身の行われた後の似姿で、幽霊が戻ってきたら消えてしまうのではないかと恐れる者もあった。そうした恐れを抱く者は、家に入るとき戸を自分一人がようやく通れる程度に開き、そこから身を横にして滑り込ませ、間髪入れずに戸を閉めた。
 そのような疑いや恐れが広まるのもむべなるかな、似姿というのは姿ばかりのことでなく、しぐさや動き、それまでの記憶を含めたものごとの考え方から一日の振る舞いに至るまで、なにからなにまでを含めた似姿なのだった。似姿のほうでも自分が似姿であるということを知らず、まったく今の今まで変わることなく暮らし営んでいるという具合である。だから写身を行うことをあらかじめ告げられていない限り、似姿を似姿と見破ることなど誰にもできはしなかった。
 噂は他所へも広まってゆき、集落は次第に気味悪がられるようになった。また集落の者のなかにも気味悪がって他所の土地へ移り住む者が出始めた。そのような事情から、初めの男が写身を行ってから一年の後、集落全体の取り決めによってこの術は禁じられた。かといって誰も写身を行っていないという確証はなく、疑念は晴れないままだった。例の森の小道をつぶしてしまうことも考えられたものの、山を抜ける唯一の道であるために残さざるを得なかった。小道に見張りを付けることも考えられたが、皆各々の仕事に手いっぱいでそんな余裕などありはしなかった。それに噂によると、この山裾の集落の裏手にいくつかある小道――それはたきぎや山菜などを取りに山へ入るためのものだったり、ただのけもの道だったりしたが――にも写身をするのに足るものがあるとのうわさがあり、つぶすにしても目を配るにしても無理があった。出来ることと言えば、自分がどこかへ出かけて家まで戻る際、家人の誰かに後をつけられていないか注意することくらいだったが、そんな注意いくらしたところできりがなく、かえって疑心暗鬼を募らせるばかりだった。
 それから時が巡った。二度にわたって続いた冷夏により皆が疲弊した後の年。この年もまた冷夏に見舞われた。これでは冬を越すことができるのやらわからない、寒さと飢えとに苦しむ冬を、三度まで越えねばならぬのか。かといってここには皆の食い扶持を稼ぐことのできるような価値のあるものなどもはやなにもない、周りの村々とて三度の冷夏で苦しんでいるだろう、他所様を頼るわけにもいかぬ。さてどうしたものか、と寄り合いで話し合いが行われた。いい方法がある。と、男が言った。それは始めに写身の術を発見した、あの男だった。
 秋も深まり、森の木々が朽葉色に枯れたころ。集落取り決めのもと、禁忌が解かれた。せめて辛く苦しい冬の暮らしを似姿に肩代わりさせ、春の雪解けのころに元通り戻ればよいとの考えだった。似姿の似具合といえばそれはもう本人とまごうかたなきものであれば、自ら暮らそうが似姿が暮らそうが大差はない、それでいて労苦の身代わりとなってくれるのだからこれほどよいものはない。そこで集落の者は次々と写身を行なった。方法は簡単とはいえ自分一人で行い切らなければならないため、年端のいかない子どもには写身ができず、そのため子のいる家ではためらう者があったが、それでも集落の少なくとも半数以上が初雪の降る前には写身を行なった。
 そして来るべき冬。身の凍みるような寒さのなか、人々は三度の厳しい冬を生きるのに精いっぱいだった。雪のなか、焚き木を拾いに山へ向かってそのまま帰らぬものがいた。焚き木を切らして家のなかで凍え死ぬものがいた。母親の乳が出ないため死んだ子が何人もいた。切羽詰まるほど、集落の半数の者は写身を行なったもう半数の者をうらめしく思った。どうせあの家の者はみな似姿だろう、いくら苦しそうにしていたところで、何も感じぬ人形だ、似姿に全部押しつけて、自分だけはどこかで呑気に眺めてるんだ、飢えて死んでくおれたちを、ただただ眺めているんだろうよ、ほらこの天井裏から、柱のかげから、やつらが見ているかもしれぬ。そうしてどうにも立ち行かなくなった家の者たちが、最後の力を振り絞り、鍬やら鋤やら鎌やらを手に手に他所の家へ乗り込んだ。一人また一人と切られ砕かれ引き裂かれ、そのまま鍋に放り込まれ、煮立てられて食われていった。雪の上には真っ赤な血肉が散り敷いた。家々に火が放たれ、あぶり出された者がなぶり殺しにあい、そのまま焼かれて食われていった。このありさまに恐れをなした者は家人と相談のもと、雪をかき分け山の小道へ向かった、そして写身を行うのだった。
 やがて精も魂も尽きてしまうと、繰り返し繰り返し、人々は写身を行なった。食うもの食わず、日に一度、祈りのように行なった。そうして春を迎えるころには、片手の指に余るほどの者しか残らなかったという。それらは皆、写身を行うことができない独り身の者だったという。
 似姿を失った無数の幽霊がその後どこでどうしているのか、知る者はいない。

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