
私は一頭の観念の山羊となった【自動記述20241225】
午後10時50分
矢は飛んだ。
矢は飛んで前方へ真っ直ぐ消えた。
矢が飛んで真っ直ぐ消えた先には虚空があった。
矢は虚空に飲まれた。
それから山羊がほとんど垂直に見える斜面をものすごいスピードで駆けていった。
見えない獣に追われた山羊の群れは見えない恐怖におびえながら、壁のような山肌を征く。
石ころを蹴散らし転がしながら征く。
そうして山羊の群れは一匹、また一匹と足を踏み外して壁のような山肌を転げ落ちて死んだ。
死んだ山羊が山裾に血の湖を作った。
血の湖は膨大な蠅が雲のようにたかって、一瞬でも耳にしたら即座に気が狂うほどの羽音を立てていた。
一瞬でもその羽音を聞いたものは気が狂い、壁のような山肌で見えない獣に追われている夢に囚われた挙句墜死するのだった。
墜死したものが観念の血の湖をさらに血で満たし、観念の血で満ちた血の湖が現実の血の湖に血を添えるのだった。
爆発音がした。
どこからかはわからない。
誰かが歌っている、この世のものならざる歌声で。
この世のものならざる歌曲を歌っている。
山の稜線に吹き付ける風が鋭い岩肌に梳られて立てる、この世のものならざる音を伴奏にして。
月が昇っては落ちる、日の巡りとはまるで関係なしに。
夜はこないのだろうか、あるいは昼はこないのだろうか、あるいは夜も昼も規則を失って、すべてが混ざり合わないまま混在しているのだろうか。
膨大な数の蠅はもう蠅という単体の生き物を超えていて、それはもう血の湖の血のようにひとつのものとなってすべてのものを損なうためにそこにあった。
すべてのものをそこない、すべてのものを食らい、すべてのものを分解し、そうしてまた血の湖を、ただの湖にするためにそこに集まっていた。
現実の湖の血を水に換える現実の蠅が。
観念の湖の血を水に換える観念の蠅が。
蠅は黒い霞みと化して大雨のさらに大雨のさらに大雨のような音を立てながら湖面の直上にわだかまっている。
太陽は出ない。
いや太陽は出ている。
雲は出ていない。
いや雲は出ている。
現実と観念とが重ね書かれて何が真実なのかわからない状態で、山の稜線だけが空と地を区切る確かなラインだった。
だから私は山に登ることに決めたのだった。
山に登ることに決めた、私は。
そうして私は山に登ることを決めただけで、その足を一歩たりとも前へ踏み出すことがなかった。
山に登ることを決めた段階で私の観念の足はすでに山の頂を極めており、それ以上のなにが必要なのかがわからない。
観念の山の頂を極めた私は、そこから世界を俯瞰する視座を得た。
世界を俯瞰する視座を得たところで、私は満足した。
私の満足とは、世界を俯瞰する視座を手に入れることにあり、それ以上でも以下でもなかったのだった。
そうして私は、ほんの遊戯として山の稜線を歩くことに決めた。
観念の私は観念の山の稜線を歩き、観念の世界を俯瞰し、そうして私は満足した。
私の生は満たされた。
その時私は一頭の、群れを持たない、観念の山羊となっていた。
観念の山羊となった私は、観念の獣に追われているらしかった。
私は逃げず、この身を差し出すことにした。
差し迫った観念の恐怖は私にとってなにほどでもなかったのだった。
山の稜線のその向こう、ちょうど暮れかけの太陽を背に負って、真っ黒い影の獣が私のほうへ近づいてくるらしかった。
遠近感は強い西日の輝きのなかに消え、影は平面的に、その大きさを増していった。
そうしてやがて私は、永久の夜が訪れることを悟ったのだった。
それは冷たくも温かくもなく、どことなく郷愁を孕み、哀愁をも孕み、安寧をも孕んだ、夜の観念のような夜だった。
そうして私は夜となり、観念の世界も、現実の世界もなくなり、だから観念の世界も、現実の世界も融け合い、世界は世界となったのだった。
午後11時7分