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砂浜で【自動記述20241214】

午後10時54分

 海の情景。
 砂。
 カニ。
 何もないということが実感されるような空気感。
 それから風が吹き、風が吹く。
 潮の香り。

 砂利のなかから割れたガラスを探して遙かな向こうへ向けて歩いていると、やがて日が暮れる。
 そしてまた日が昇り、日が暮れる。
 暮れた日は地の底で巡り、それからふたたび昇ってくるらしい。
 なぜだかはわからない。

 同類がいないような気がして辺りを見渡すと、やはり同類はいない。
 そもそも同類とは何なのか。
 同類、などという思考がなぜ浮かんだのかもわからないが、私は漂流したのかもしれなかった。

 漂流した私をこの浜に見つけたのかもしれなかった。

 私に見つけられた私はこの砂浜を、海岸線に沿ってただただ歩く、歩く、歩き詰めてやがて倒れ朽ち果てるかもしれない。
 それまでにやりたいこと。

 それまでにやりたいことなど特になく、今はただ歩く、歩く、歩き詰めてやがて朽ち果てるかもしれない。

 しかし生きている、なぜ? 

 素朴な疑問が照り付ける太陽に投げられて吸い込まれて光が明滅する。
 焼かれた眼が世界を緑色に転じる。
 緑色の世界のなかをただただ歩く、歩く、歩き詰めてやがて倒れ朽ち果てるかもしれない。

 それを私は恐れている? 

 いや。
 恐れなどこの世にはない、なぜなら何かを恐れるほどの内容がないのだから。
 物事を恐れるのには内容が必要だ、
 何らかの取っ掛かりが必要だ、
 それがここにはない。

 地面は砂でできており、常に崩れてもろい。
 波は常に寄せては引き、留まることを知らない。
 私は常に前進し、考え、老い、朽ち、せわしない。

 そのようなものだからこのような世界に畏れというものは成り立たない。
 あるいはそれは強がりか? 
 何に対する? 

 何かに愛着を持てばよいのかもしれない、例えば浜をゆくカニなどに。
 あるいは名残惜しくなるかもしれない、この世から去ることを。
 あるいはこの世を何らかの意味において知ることを。
 それはこの世に色を付けるかもしれないが必要なこととは思えなかった。

 ともあれ歩く、歩く、歩き詰めてやがて朽ち果てることを私は目指しているのかもしれない。
 歩かなくても朽ち果てる感じがあるのだから、敢えて歩く意味などないような気がするものの、それでも歩く、歩く、歩き詰めてその先に何があるのかを確かめるために? 
 どうだろう。

 あるいはただ、足を前に踏み出すことそのものに快感があるのかもしれない。
 その程度の理由で進められるこの時間はほとんど無限と言ってもよいようなもので、変化がない。

 変化がないからこうして脳内で文章を記述する。
 記述された文章だけが時を時として記録していき、それこそが、それだけが自分の歩みを確証する。

 だから私はともあれ書く、書く、脳内に書くことでこの砂浜を歩き詰める。

 歩き詰めたその先に何があるのかを確かめるため? 

 あるいはそうとも言えるかもしれないが、敢えて言いたくなるのは、この歩みには目的などないということで、それは至極単純なこの世界の情景が遡及的に私に伝えるところでもある。

 ともあれ私は歩く、書く、そして歩き詰めた先の先を超えて、恐らくまだ歩き、書くだろう。
 これはそういう話なのだろう。

午後11時6分

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