見出し画像

手透き子と木彫師

 とある川辺に集落があった。よく肥えた土地で水が絶えることもなかったので、作物の実りがよく、人々は何不自由なく暮らしていた。ただ何年かに一度、川はとどめようもなく暴れに暴れ、田畑の作物や家々の多くを一瞬にして流し去るのだった。だから川の暴れた年には多くの人が食い詰めた。家を失った人々のなかには山裾の高台に居を設けた者もあったが、そこは日当たりも悪く、沢水は冷たかったので作物が碌々育たず、結局はひもじい思いをすることとなった。
 そうした状況から、集落では人身供犠が頻繁に行われた。川が暴れると、寄り合いで合議の末どこかの家の娘が選ばれた。選ばれた家の娘は三日三晩の絶食と禊を経、荒れ狂う川の淵へ投げ入れられた。娘を淵へ投げ入れた年は、作物や家屋の被害が多少なり軽くなった。
 ある年のこと。いけにえとして選ばれた娘を哀れに思った家の者が、何とかならないものかと思案した。そこで、集落で一番手先が器用と評判の大工に相談し、娘に似せた木彫を作らせた。儀式の通例として、最後の禊を終えた娘は正座の状態で足を縛られ、御輿に乗せられて川まで運ばれることになっていたので、家の者は協力し、御輿に乗せる頃合いで生身を木彫にすり替えた。全身くまなくおしろいを塗り込め、唇には紅を引き、最後の時まで決して瞼を開けてはならないという慣例が助けたところもあって、人々に気づかれることはなかった。そうして娘の木彫は川の淵に投げ入れられ、その年の被害は少なく済んだ。
 それからというもの、人身供犠の話が持ちあがるたび、裏でひそかに根回しがなされた。すり替えはほとんど毎回行われるようになり、またほとんど毎回それなりの効果をもたらした。そのうち若い娘のある家は前もって肩代わりとなる木彫を作らせるようになり、さらに時が過ぎると秘密はやがて集落の暗黙の了解となっていった。川の暴れる年に限って行われてきた儀式は毎年の恒例行事となり、件の大工も大手を振って木彫師として生計を立てるようになった。
 いけにえが木彫に置き換わってから、木彫師は試行錯誤を繰り返した。というのも、木彫の出来によってその年の水害の程度が異なることがわかってきたからだった。その後も形の上ではどこかの家の娘がいけにえという体裁で選ばれたので、木彫も当の娘に似せて作るというのが慣例だった。試みに、当の娘よりずっと美しく、当の娘とまったく似ていない木彫を供した年には、この行いを後悔するほどの被害が集落にもたらされた。だからといって、顔はおろか身体の隅々までどこをとっても当の娘に瓜二つというほど精巧に作り上げた木彫を供しても、その仕事に見合うだけの成果が得られないことがあった。かといって所詮形ばかりの儀式に過ぎないのだと手を抜くと、決まって痛い目を見た。
 ある年のこと。いけにえをかたどった木彫を御輿に乗せて集落を練り歩いていた時、何かの拍子に木彫の右腕が、二の腕の根本から欠け落ちた。集落の面々は気にするまいと努めて事を終えたものの、儀式の成果が心配された。ところが、その年はこれまでになく安泰で実り多い一年となった。初めこそ自らの手落ちを責めた木彫師だったが、集落の者から散々に言われるうちに職人としての矜持が損なわれた。腕が取れようと結局はどうでもいいのだ、おれの仕事など誰にも認められない、人にも神にも認められない、おれの考え、おれの工夫、おれの心配、おれの思いなどなにもかも無駄だったのだ、おれはまるで意味のない独り相撲をしていただけなのだ、なにが人身供犠だ、どれだけ丹精込めて作ったところで結局川の淵に投げ入れられるのだ、泥をこねた人形でもぶち込めばいい。そうして木彫師は仕事を放棄し、蓄えを切り崩しながら放蕩の日々を送った。長らく続いた儀式もこの時を境に途絶えた。
 それから幾年月を経、木彫の人形(ルビ:ひとがた)を作ることができる者はおろか、儀式を知る世代すら残らず世を去って久しいある年のこと。集落のとある家に畸形の赤子が生まれた。赤子には右の二の腕の付け根から先がなかった。赤子はすくすく育ったが、奇妙なことに、ないはずの右手はおもちゃを掴み、ないはずの指をしゃぶるのだった。透明な右手で持ち上げたものもまた透明になり、置くともとに戻った。何かよくないことの前触れではないかと恐れる声が聞かれ、気味悪がられもしたが、長らくの心安い日々が人々の迷信を退けた。同じような畸形児が何年かごとにぽつりぽつりと生まれると、右腕の無い者を集落では「手透き」と呼ぶようになり、不思議ではあったものの次第に受け入れていった。
 初めに生まれた手透き子が成長し、お嫁に行けるほどの年齢になった、その年の夏。集落はこれまで経験したことのないような川の氾濫、大洪水に見舞われた。田畑、家屋はおろか多くの人が暴れ狂う川の流れにさらわれた。犠牲となった人の数は儀式が途絶えてから今日に至るまでに経た年の数と同等かそれ以上だったと言われている。この大洪水以降たびたび水害が起こったことから、集落ではふたたび人身供犠の儀式が始められることとなった。いけにえとして供されたのは、手透きの娘だった。水害はぴたりと止んだ。
 ふたたび集落には平穏が訪れたかのように思われたが、手透き子の出生はますます増えていった。手透き子はすでに不吉なものとみなされ、川の氾濫との関係が考えられていたことから、毎年のように人身供犠を行うこととなった。
 ある年のこと。いけにえとして選ばれた娘を哀れに思った家の者が、何とかならないものかと思案した。そこで、集落で一番手先が器用と評判の大工に相談し、娘に似せた木彫を作らせた。大工は若い男の手透きだった。大工は無い腕で見えない玄翁を振るい、実に見事な手透き娘の木彫を作り上げた。儀式の通例として、三日三晩の絶食ののち禊を終えた娘は正座の状態で足を縛られ、御輿に乗せられて川まで運ばれることになっていたので、家の者は協力し、御輿に乗せる頃合いで生身を木彫にすり替えた。全身くまなくおしろいを塗り込め、唇には紅を引き、最後の時まで決して瞼を開けてはならないという慣例が助けたところもあって、人々に気づかれることはなかった。そうして手透き娘の木彫は川の淵に投げ入れられ、その年の被害は少なく済んだ。
 それからというもの、儀式のたび裏でひそかに根回しがなされた。すり替えはほとんど毎回行われるようになり、またほとんど毎回それなりの効果をもたらした。そのうち若い手透き娘のある家は前もって肩代わりとなる木彫を作らせるようになり、さらに時が過ぎると秘密はやがて集落の暗黙の了解となっていった。件の大工も大手を振って木彫師として生計を立てるようになった。
 いけにえが木彫に置き換わってから、木彫師は試行錯誤を繰り返した。というのも、木彫の出来によってその年の水害の程度が異なることがわかってきたからだった。その原因がどこにあるのかを調べるなかで木彫師は、その昔集落で名をはせた先代木彫師の存在にたどり着いた。先代木彫師もまたいけにえの身代わりとなる人形を作ることで生計を立て、財を成し、立派な屋敷で暮らした、しかしある出来事から鑿を捨て、放蕩の限りを尽くした――ここまでのことを古老の訓話や、由来の知れない昔話や、子どもの口ずさむわらべ歌などをもとに調べあげた木彫師は、集落の行く末を少しく恐れ始めた。
 木彫師は集落の旦那衆を集め、知りえたかぎりのことを話した。今と同様その昔に行われてきた人身供犠のこと。先代木彫師が鑿を捨てた一件のこと。その一件と手透き子との奇妙な関連。そして試みにと説得し、今年は両手の無事な娘をいけにえとして選ぶよう提案した。そうして木彫師はその年、両手の無事な娘の木彫を作り上げこれをいけにえとして供した。皆が恐れたほどではないにせよ、田畑の三割がつぶれるほどの水害が出た。
 やはりいけにえは手透きでなければならぬ、と集落の合議で改めて取り決められた。そして事実、手透き娘の木彫を供した年は水害がなかった。やるかたなくも木彫師は仕事に励み、ともあれ残された左の腕だけは死守せんと念入りに継ぎ、胴体から離れることのないよう注意を払った。
 ある年のこと。いけにえをかたどった木彫を御輿に乗せて集落を練り歩いていた時、にわかに湧き出した黒雲が辺り一面に滝のような大雨を降らせた。息もつけぬほどの雨のなか、御輿の担ぎ手たちは儀式を続けんと気張ったが、耳を聾する轟音とともに突如として木彫が火を噴いた。雷が落ちたのだった。木彫は千々にくだけて御輿から一つまた一つこぼれ落ちていった。それでも担ぎ手たちは足を止めることなく進む。やがて川の淵を見下ろす高台の崖までのぼりつめたとき、御輿の上にはもう木片のひとかけらさえ残っていなかった。それでも儀式は続けられた。見る人には、なにも乗っていない御輿の、井桁に組まれた土台だけが川に投げ込まれたように見えた。木彫師は、恐れていたことが、いや恐れていた以上のことが起こったのを悟った。その年に水害はなかった。
 次の年、集落のとある家に奇妙な赤子が生まれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?