【書評】シギズムンド・クルジジャノフスキイ「瞳孔の中」
【瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集:シギズムンド・クルジジャノフスキイ:上田洋子、秋草俊一郎訳:松籟社:1920年代後半】
現ウクライナ、旧ソ連の「知られざる」作家、クルジジャノフスキイの短編集。
時代背景から世に出ることが叶わず、死後再発見された作家とのことだが、本書解説を読むと創作意欲は旺盛で、舞台脚本なども書いていたというのだからそれなりに活躍していたとも言える。
そうだな。
読み終えてみて、率直な感想。
解説曰く、クルジジャノフスキイ文学には三つの期間があり、本作は第二期に位置するらしい。
以前読んだことのある「神童のための童話集」は第一期。
「神童のための童話集」は短編というよりも掌編に近いくらいの短さで、各話がワンアイデアで簡潔に示されており、思想も強く感じるような印象があった。
そしてなにより、そのアイデアというのが奇抜で、単純に読んでいて楽しい、と。
本書「瞳孔の中」は掌編というには長く、位置づけとしては中短編の部類だろう。
そこでは人と人とのやり取りが描かれているのだが、それが「瞳孔のなかの人々」だったり、「街のベンチに集う人々」だったりして具体性が覚束なかったりする。
「支線」のように夢のなかの話もあり、正直何がどうなっているのか一読しただけではわからない、という印象を受けたものも多い。
率直な感想。
「神童のための童話集」が面白かったぶん、本作は正直期待外れだったところがある。
奇想は奇想なのだが、奇想そのものというよりも、人間同士のやりとりに重心が移った作品という。
しかしほかならないクルジジャノフスキイである。
主に掌編を書いていた第一期を経て、第二期には人間を描くようになり円熟味が増した、というようなことが解説で言われているのを鑑みると、自分自身が第一期的価値空間のなかにおり、第二期的作品の価値がわからないだけ、という可能性はある。
「人間を描いた作品よりも、世界を描いた作品が読みたい」というのは以前から思っている。
描出の重心が人間に寄れば寄るほど、作品は月並みなものになる、というのも思う。
少なくとも、「人間の感情」に重心のある作品というのは、ほぼ確実に月並みなものになるだろう、という確信がなぜかある(感情というのは概ねステレオタイプなものだから。
これは「痛みはいかにして学ばれるか」に関する「永井/ウィトゲンシュタイン」の考察でも裏付けられる。
それになにより、その状況におけるその感情に共感がなければ作品としては成立しがたいだろうから――いや、敢えて外した作品というのも書けることは書けるな。書いてみようか……)。
他方、何かがありそうだとも思っている。
あるいはさらに時を経て読めば、この短編集の素晴らしさがわかるかもしれない。
個人的な好みは「クヴァドラトゥリン」と「噛めない肘」の二作だろうか。
「クヴァドラトゥリン」は、四方の壁に塗ると部屋が広くなるという薬にまつわる話で、主人公は最終的に部屋のなかで遭難してしまう。
部屋を広くする手段が塗り薬というところがユーモラスで面白い。
また、ソ連時代の住宅難で都市生活者には狭小な居住スペースしか与えられなかったというのが背景としてあるらしい。
ということを考え合わせると、皮肉が利いている。
「噛めない肘」。
自分の肘を噛む、という不可能事に全身全霊を傾けた男を中心に、彼を尊敬し崇拝する者たちや、彼に思惑のある者たちがあれやこれやと思いめぐらせ、やがて世界が大変なことに巻き込まれてゆく、という話。
「肘は近いが噛めない」、というのは不可能な物事を意味するロシアのことわざだそう。
「肘を噛む」という一点からこれだけの物語が展開されるのは圧巻。