暴力革命は当然
もはや戦前ではない事は当紙でもくりかえし言及されており、それは暴力革命が不可避である事とともに、日本帝国主義による侵略戦争、ならびに帝国主義戦争を内乱へと転化させると言う、レーニン主義者としての使命的義務が間近に迫っている事を表している。
現実として、我々はまだ帝国主義戦争を内乱へと転化させる力など到底持ち合わせていない。もし今、現代、数年以内に日本が帝国主義戦争を行ったとしても、日本の左翼は黙って指をくわえて見ているだけで終わるだろう。当然、「時が来れば」何らかの抗議行動は行われる。その抗議行動は2024年現在のそれよりも質量ともに大規模なものになっている事は想像に難くないし、個人や小規模グループの単位では、口先だけでは無い本当の転化行動が行われる。
問題は現状だ。もしこの2024年現在の勢力のまま、日本が帝国主義戦争を開始すればどうなるのかだ。十中八九、組織はその温存に走るはずだ。
我々は共産主義者であるので、その心情や目的を隠す事そのものを軽蔑する。なので暴力革命を呼びかけることに躊躇などなく、選挙で何も変わらないと言うだけで終わらずに、ちゃんと選挙でなく暴力革命で社会を変えようと付け加える。(2面に続く)
暴力革命とはプロレタリア革命の事であり、そうでなければならない。既存の社会機構を粉砕しなければならないし、その上で世界革命ならびに共産主義社会への過渡期である、プロレタリア独裁を確立させなければならない。それも、ソ連じみた赤きの威を借りただけのまがいものでは無く、本物のマルクス主義・レーニン主義(注:マルクス・レーニン主義の事ではない)に基づいたものをだ。
カクマルを批判していても、自らがカクマルじみた事を行わないと言う保証など無い。組織を温存するために国鉄分割民営化への協力を行ったカクマルであるが、2024年現在の状況のままで戦争が始まれば、組織の温存のために戦争へ協力する連中が出てくるだろう。口先だけではどうとでもなるが、実際の行動はどうとでもなる訳ではないのだ。
革命党ですら無い日共は論外だとしても、世のあらする革命党は、批判していた相手と同じ所業を行う危険性をはらんでいる。帝国主義戦争のさなかにおいて、それを内乱へと転化させようともしない事は、戦争に協力する事と同じだ。そんな真似はレーニン主義者であれば、死んでもやらない事だ。
戦争ともなれば、敵は日帝や右翼連中だけではなくなる。内なる敵が登場し、革命よりも組織の温存を重要視したり、あるいは自己の保身に走ったり、あるいは自己の思うがままに同盟員が動いているを重要視する輩が出てくる。それが社会の危機というものだ。名称が党であれ同盟であれ、協会であれ組合であれと、それは否応なしに突きつけられる。
戦う労働者階級のネットワーク構築は急務だ。戦争における通貨は労働者階級の血に他ならず、また戦争を止めることが出来るのは労働者階級に他ならないからだ。毎年開催されている労働者集会でもいいし、かしこまったり、小難しい理屈を立てる必要も無い、興味本位でも構わない。我々が毎年呼びかけている、あの労働者集会への参加を今年も呼びかける!(中井)
(参加の際は恐縮でございますが、県反戦等のXまでご一報をお願いします。)
【反戦新聞 第28号】
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