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兵庫県立歴史博物館「斎藤畸庵 城崎の画家が夢見たユートピア」展(2024)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

兵庫県姫路市の兵庫県立歴史博物館にて2024年7月13日から9月1日にかけて開催されていた「企画展 斎藤畸庵 城崎の画家が夢見たユートピア」展を拝覧してまいりました。

本展が終了して1ヶ月以上も経っておりますね。時の経つのは早いものです。開催中に記事化させて頂きたかったのですが無理でした。

兵庫県立歴史博物館のウェブサイトに本展のアーカイブが残されておりましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

弊方、斎藤畸庵先生のことは全く存じ上げませんでしたので、誰?! 知らん? 萌える!!! というナゾのヲタク三段論法(論法ではありませんね、申し訳ありません)で、たいへん楽しみにしておりました。

まずは晩夏の過日に8月4日までの前期展にお伺いしたのですが、会期中にかなりの展示替えがあり、かつ、ギャラリートーク(展示解説)も開催されることがわかりましたので、初秋の過日に8月6日からの後期展にもお伺いしました。

本展は2階の特別展示室と1階のコレクションギャラリーが会場になっておりました。本展2階入口の垂れ幕(バナー)のみ写真撮影可でしたので、僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

斎藤畸庵先生に関しては、先ほどの本展アーカイブに解説がありますので、そちらをご確認頂ければと思うのですが、斎藤畸庵先生は、耳が不自由だったそうです。

ギャラリートークでお伺いしたところによれば、「畸庵」という雅号(画号)の「畸」という文字は、このハンディキャップに由来するものだそうです。この点は本展「斎藤畸庵」展図録に収録される「斎藤畸庵の生涯」という論文(同展図録第83-87ページ)にも解説されています。

耳が不自由な画人というと、最近存じ上げたばかりなのですが、山縣二承先生と高増径草先生を思い浮かべました。

まず山縣二承(やまがた じしょう、1811-1879)先生は、「広島四条派」の重鎮的な存在だそうで、過去に広島県では何度か展覧会が開催されているようです。

最近では、2021年12月18日から2022年2月13日まで広島城で「山縣二承と里見雲嶺~広島四条派の系譜~」という企画展が開催され、弊方お伺いしようと予定をやりくりしていた矢先、2021年1月9日から広島県に新型コロナまん延防止等重点措置が適用されたため、中止になってしまいました。

たいへん残念に思っていたところ、なんと、全く同じ内容ではないものの、2022年5月14日から7月3日にかけて「四条派対決!! 山縣二承VS里見雲嶺~収蔵品を中心に~」という企画展が開催され、弊方、喜んでこちらの企画展にお伺いさせて頂きました。

「四条派対決!!」展で「山縣二承と里見雲嶺」展図録もゲットさせて頂いたのですが、「山縣二承と里見雲嶺」展図録によれば、山縣二承先生の「二承」という雅号(画号)の由来は、次のようなものでした。

 山縣二承は文化八年(一八一一)広島で生まれます。通称は虎蔵で、老いては書画介と名乗りました。幼いころから耳が不自由で、再度聞き返すことから「二承」と号します。

「山縣二承と里見雲嶺~広島四条派の系譜~」展図録(2021)第8ページ第1-2行

山縣二承先生も、斎藤畸庵先生も、自らのハンディキャップを雅号(画号)の由来とされているようですね。

ちなみに、「四条派対決!!」展については、広島城ウェブサイトにアーカイブが残されておりましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

次に、高増径草(たかます けいそう、1901-1985)先生ですが、弊方の過去の記事「安芸高田市歴史民俗博物館「小企画展 幕末の絵師 小島雪そうの絵画」展(2024)」において、ごく簡単にお名前だけ触れさせて頂いているだけなのですが、安芸高田市歴史民俗博物館にお伺いしたときに高増径草先生の作品を拝見して感銘を受け、いろいろ調べたところ、耳が不自由でいらっしゃることがわかりました。僭越ながら弊方の過去の記事にリンクを張らせて頂きます。

高増径草先生は、Wikipewdia に項目立てされているくらいに著名な近現代の画人でいらっしゃいます。

東京のお生れで、画人としては水上泰生先生の門下であるとともに、東京聾唖学校でも学ばれて師範科を卒業されて教育者にもなられて、設立間もない広島県立盲唖学校に美術教師として赴任されたそうです。高増径草先生も広島にご縁があるのですね。

なお、高増径草先生は、 Wikipedia だけでなく、下記に僭越ながらリンクを張らせて頂きますが、中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターウェブサイトの2008年3月18日付記事等にもありますように、原爆投下1ヶ月後の広島市内の状況を描かれていたことでも著名だそうです。

斎藤畸庵先生の生没年は1805年-1883年で、山縣二承先生よりも6歳くらい年上なだけですので、畸庵先生と二承先生は同時代に活躍されておられますね。ただし、畸庵先生は南画/文人画の画人でいらっしゃるのに対して、二承先生は四条派の画人でいらっしゃいますので、特に接点はなさそうな感じです。

閑話休題、本展「斎藤畸庵」展のきっかけは、ギャラリートークでも展覧会図録にもご説明がありましたが、斎藤畸庵先生の蒐集研究家でいらっしゃる関茂昭先生の書画コレクション(関茂昭コレクション)が2022年に兵庫県立歴史博物館に寄贈されたことだったそうです。この辺りの経緯は、展覧会図録第8-9ページに記載される関茂昭先生のコラム「畸庵と私」に詳しく紹介されております。

このコラムによれば、2021年に兵庫県立歴史博物館の最初の調査があり、このときは簡単なものだと考えられていた模様なのですが、学芸員の先生が熱心でいらっしゃって何度も調査が行われ、最終的に関茂昭先生はコレクションを寄贈することにされたそうです。

実際、兵庫県立歴史博物館ウェブサイトには「学芸員コラム」のページがあり、その中に、斎藤畸庵先生を主題とするコラムがあります。古い順から、2018年10月15日付「第103回:斎藤畸庵 城崎生まれの旅の画家」であり、その後、2021年11月15日付「第133回 斎藤畸庵の旅と中国絵画」、2024年2月22日付「第155回 齋藤畸庵、ふたたび」のコラムが確認できます。僭越ながら「学芸員コラム」のページにリンクを張らせて頂きます。

ギャラリートークの冒頭で学芸員の先生がおっしゃっていたのですが、出品番号1の「竹巖秋雨」は、関先生がとりわけ魅了された作品だそうです。

この作品は、画面左側寄りに、あまり密でなくかといって粗でもない様子で竹叢が描かれ、画面右側は下に水辺、上に遠景が描かれ、画面右上には自賛と落款が記されていると思うのですが(弊方私見)、竹の葉に縦方向の墨のにじみを覚えることができ、これが雨降を表現しているように見えるという、たいへん通好みの作品でした。なお、写真撮影不可でしたので、ぜひ図録をご購入してご覧頂ければと思います。

本作は基材が絹本で、本展図録の作品解説には「よく見れば絹目に沿って縦方向に墨が滲んでおり、しとしとと細かい雨が降っているようにも見える。」とありました(「斎藤畸庵」展図録第88ページ第1段第5-6行)。

さて、斎藤畸庵先生は、かの中林竹洞先生に学ばれたそうです。

中林竹洞先生といえば、南画/文人画の分野で京都筆頭といってもよい巨匠であっただけでなく、学者や評論家としてもたいへん著名だったそうです。

なお、中林竹洞先生や、同じく尾張出身で竹洞先生の盟友にして文人画界の巨匠・山本梅逸先生については、弊方、過去の記事「一宮市博物館「尾張の文人画」展」でヲタトークさせて頂いております。僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

中林竹洞先生は、曾我蕭白師匠のことを辛辣に批判されていることは有名ですが、畸庵先生も、竹洞先生の門人でいらしたためか、やはり蕭白師匠に対しては批判的だったそうです。この点に関して興味深い解説が掲示されておりました。

それは『畸庵翁奇譚』という、トコトコ先生による四コママンガによる解説作品でした。2階の特別展示室には、「旅の始まり」、「蕭白には感心しないが」、「畸庵翁帰還」、「草庵畸庵和気藹々」の4作品が掲示されており、1階のコレクションギャラリーでは、「やっぱり山水画」、「清廉の人」、「心の耳」の3作品が掲示されておりました。

ただし、本展図録には「やっぱり山水画」のみが収録され、他の作品は収録されておりませんでした。

ご参考までに、コレクションギャラリーの「心の耳」と同会場が写真撮影可であることの表示を写した雑な写真を掲載させて頂きます。

1階のコレクションギャラリーは「第2会場」という扱いで、無料で入場でき、写真撮影可でした。僭越ながら第2会場の入口の雑な写真を掲載させて頂きます。

なお、上記の3つのパネルは、左から「やっぱり山水画」、「清廉の人」、先ほど写真を掲載させて頂いた「心の耳」です。

この『畸庵翁奇譚』のうち2階の「蕭白には感心しないが」から、解説の一部をメモしたものを僭越ながら下記に引用させて頂きます。

(前略)畸庵は蕭白のことを、「下品でたいしたことはない」と酷評していますが、一方で、蕭白の逸話* を播磨で聞き、一点一画をおろそかにしない制作態度には共感をおぼえたそうです。蕭白のちがう一面を知ったことも、畸庵の旅の効用のひとつだったようです。

* 蕭白は高砂の寺の壁に絵を描いて去っていったが、十数里(約40km)離れた兵庫駅から引き返して絵を手直ししたという。

典拠:出品番号99『畸庵翁薄游漫載』斎藤畸庵著、西皐鶴城和訳 1913年

『畸庵翁奇譚』「蕭白には感心しないが」トコトコ著 2023

弊方、曾我蕭白激推しヲタクなのですが、この蕭白師匠の逸話は初めて存じ上げました。さすが蕭白師匠!!!

さらに、上記の引用末尾の「畸庵の旅の効用」に関して、『畸庵翁奇譚』の「旅の始まり」の解説の一部をメモしたものを僭越ながら下記に引用させて頂きます。

(前略)畸庵によれば、竹洞は名声や利得を求めて地方におもむく画家が多い当時の状況を批判し、弟子に旅をすすめなかったようです。しかしそれでは見識が広がらないと考えた畸庵は、竹洞の教えを離れ、旅に出ることを決意しました。

典拠:出品番号99『畸庵翁薄游漫載』斎藤畸庵著、西皐鶴城和訳 1913年

『畸庵翁奇譚』「旅の始まり」トコトコ著 2023

このように畸庵先生は、竹洞先生の教えとは異なり「旅する画人」だったそうで、本展でも第3章でその旅路とともに作品が詳しく紹介されておりました。ご参考までに本展の展示構成を再録させて頂きますと下記のとおりです。

○第1章 畸庵を生んだ城崎-山房、愛宕山を負い大渓川に俯す
○第2章 画業のはじめ-弱冠画を竹洞先生に学ぶ
○第3章 旅立ち-山水の奥旨を究む
 (1) 交流の証-姫路・淡路の友人たち
 (2) 九州へ-杜秋艇との出会い
 (3) 中国絵画に学ぶ
 (4) 実景を描く
○第4章 円熟-時事の艱を聞くを免る
○第5章 晩年の挑戦-緻密にして俗気なし
 (1) 新天地・東京へ
 (2) 晩年の画境
 (3) 畸庵翁を慕って
○番外編 きあん先生、うさぎも描いて

畸庵先生がお生れになった城崎と画業との関連性から、師の竹洞先生との関係性、旅する画家としての歩み、円熟期から晩年まで、そして番外編という感じで、弊方的には斎藤畸庵先生のことがよく分かる「回顧展」と解釈させて頂きました。

ちなみに、番外編の「きあん先生、うさぎも描いて」が1階の第2会場の展示に当たり、『畸庵翁奇譚』の「やっぱり山水画」に当たります。僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した「やっぱり山水画」の雑な写真を掲載させて頂きます。

畸庵先生は晩年になって江戸改め東京に移られたのですが、その理由はよくわからないそうです。東京でも高い評価を受けたようなのですが、なんと畸庵先生、東京に移っても旅をされていたそうで、信州の書画会に出席するために旅立たれたのですが、その道中でお亡くなりになられたそうです。享年79歳、亡くなる最後まで「旅する画人」でいらしたというのが一貫されておられます。

弊方にとってたいへん興味深かったのが、畸庵先生の経歴だけでなく、その作風でした。畸庵先生の作風に関して、僭越ながら図録から下記の通り引用させて頂きます。

南画収集家・菊池惺堂は、「緻密な画は、世間の所謂俗画風に陥り易いものであるが、畸庵の画は緻密にして、而も遒勁、弥々気韻の横溢するものがあった」※と評した。

※菊池惺堂「南画家斎藤畸庵」『書画苑』一(二)法書会、一九二〇年

「斎藤畸庵」展図録第52ページ第1-3行、第22行

弊方、ひこねのりお先生のような引き算の美学的な作風も好みなのですが、緻密な作品も好む傾向がありまして(節操ないですね)、そういう意味でも、旅立ちから晩年にかけての斎藤畸庵先生の作品群は、個人的にどストレートな好みでした。

例えば出品番号64「武陵春景」は一見すると、ふつう? の山水画に見えるのですが、画面右少し下に乗り捨てられたような川船が小さく描かれ、そのすぐ上には、ごく小さな人物が山奥に入っていくように歩む様子が描かれ、そのさらに奥には、外界から隔離されたような建物群の屋根が描かれておりました。ギャラリートークでは、「桃源郷」の由来となった陶淵明先生の「桃花源記」の世界を描いているとのことでした。よくよく見ないと分からないくらいの細やかな描写でした。

「武陵春景」の写真はありませんが、1階の第2会場の山水画の雑な写真を僭越ながら下記に掲載させて頂きますので、分かりにくいかもしれませんが、緻密な描写のご参考として頂ければ幸甚です。

そして弊方、「緻密な画風の山水画」というキーワードから、愛知県みよし市ご出身の南画家・伊豆原麻谷(いずはら まこく)先生を思い出してしまいました。

弊方がかつてみよし市立歴史民俗資料館にお伺いしたときにゲットさせて頂いた「特別展 郷土の画人 伊豆原麻谷 名品展」図録には、吉田俊英先生(名古屋市美術館学芸係長・当時)が執筆された「雲煙過眼~画人・伊豆原麻谷の生涯~」という論文が収録されており、この論文から、僭越ながら次の二つの引用をさせて頂きます。

なお、この特別展は、みよし市が旧西加茂郡三好町であり、みよし市立歴史民俗資料館が旧三好町立歴史民俗資料館であったころの1993年に開催されたそうです。

10年にもわたる長崎留学を終えて、文化4 (1807) 年麻谷は再び京都に戻った。森氏が紹介し、前回の図録でも取り上げた、改名を勧め「売れる画」のアドバイスを与えた竹洞より麻谷への手紙はこの時のものであろう。

「郷土の画人 伊豆原麻谷 名品展」図録 1993 第56ページ第22-24行

この竹洞より麻谷への手紙の中で「京地は兎角丁寧にかき候画ならでは人うけ不宜候間、何卒清閑なる出来之品、花鳥にても、山水にても御見せ可被下候」という部分は非常に重要である。竹洞や梅逸とともに尾張南画の誇る「歳寒三友(松・竹・梅)」として売り出しを企てながら、やがて2人と袂を分かち京都を後に放浪の旅へ出る大きな要因になると思われるからだ。京都で受ける丁寧で清閑な絵画に対して、この頃の麻谷の絵画はどのようだったのだろうか。

「郷土の画人 伊豆原麻谷 名品展」図録 1993 第56ページ第37行-第57ページ第2行

これら引用に出てくる、竹洞先生から麻谷先生宛の手紙は、在野の歴史学・書誌学の大家、森銑三先生が、東京美術研究所の機関誌『画説』第23号(1938年)において紹介されたものだそうです。

また「前回の図録でも取り上げた」とは、旧三好町立歴史民俗資料館にて1983年に開催された「特別展 郷土の画人 麻谷展」図録に収録される、吉田俊英先生(名古屋市博物館学芸員・当時)の論文「画人伊豆原麻谷」の中で紹介されたということです。この1983年特別展の図録も弊方ゲットさせて頂いております。

伊豆原麻谷先生は、同じ尾張ご出身の中林竹洞先生や山本梅逸先生と親しい間柄だったようで、手紙の内容を論文に基づいてざくっと要約すると、竹洞先生は「麻谷やん、あんた京都で売れようとするんやったら、画風変えた方がええで!」みたいなおせっかいなことを麻谷先生に助言されたそうです。尾張ご出身であるのに関西弁なのは弊方の妄想のためですのでご容赦お願いいたします。

さらに、この手紙で竹洞先生は、「麻谷やん、あんたその名前があかんで! 幻術つかう魔谷道人みたいやがな! 「松谷」に変えたらどないや! わしが「竹」で梅逸くんが「梅」で麻谷やんが「松」で松竹梅になるさかい、尾張の松竹梅いうて売りだそうや!」みたいな、さらにおせっかいなことを助言されたそうで、これが「尾張南画の誇る「歳寒三友(松・竹・梅)」として売り出しを企てながら、」の意味です。

弊方、このエピソードを存じ上げて、中林竹洞先生って結構俗っぽい~♡♡♡ などと失礼なことを思ったのですが、別の見方をすれば、麻谷先生の画の力量を竹洞先生は高く評価されており、そのためにおせっかいな助言をされたという風にも思えます。

しかしながら、「松谷」名義の麻谷先生の作品は見つかっておらず名前は変えなかった可能性があるそうで、しかも麻谷先生は、京都を離れて大坂(大阪)に拠点を置きつつも各地を放浪するという「旅する画人」となり、その後に尾張に戻られたそうです。

中林竹洞先生と深い関係があり、竹洞先生の教えまたは助言があり、しかしながら教えまたは助言に従わず我が道を進み、緻密な画風を評価された画人、ということで、弊方は、斎藤畸庵先生と伊豆原麻谷先生に一方的に勝手に思い込みで共通性を見出しております。

とはいうものの、正統派の緻密画人である斎藤畸庵先生に比べて、麻谷先生の作風は、かなり個性的というか歪んでいるというか斜め方向に傾いているといった印象を受けます。再び、吉田俊英先生の論文から引用させて頂きます。

他には見られない麻谷画の画面全体を歪めながら化物のような山水が強烈な存在をもって迫り来るような絵画は、晩年になってからであることがわかる。

「画人伊豆原麻谷」図録(1983)第57ページ第19-21行

ほんまに麻谷先生の山水画には「斜めっ!」みたいな感じのものがあり、個人的には激萌えでした。この歪んだ斜め感が何となく曾我蕭白師匠の作風を思い浮かべてしまい、弊方、麻谷先生に「尾張山水画の曾我蕭白」という二つ名を一方的で勝手に奉ってしまいました。

・・・あれ?! 畸庵先生のことをヲタトークしてたつもりが麻谷先生のヲタトークになってしまいました。申し訳ございません。

弊方個人的な認識では、「文人」と「旅」は切っても切れない感じがするのですが、それを竹洞先生が否定的にとらえられていたのは、もしかすると麻谷先生の件があったからなのかもしれない、と妄想に浸らせて頂きました。

ちなみに、1階の第2会場では、畸庵先生の「花鳥画?」も展示されておりました。畸庵先生、作品の幅が広いですね。「花鳥画?」はコテコテの南画スタイルのものと、四条派風? いや南蘋派風? のものとがありました。僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を二つ掲載させて頂きます。

二つ目の写真に写っている六曲一隻の屏風の山水画の方が、畸庵先生の緻密な画風が分かりやすいかもしれません。

ちなみに、本年2024年9月13日から11月26日にかけて、城崎文芸館で「城崎が生んだ文人画家『斎藤畸庵』展」が絶賛開催中だそうで、ぜひお伺いしたいと予定をやりくりしているのですが、本記事の投稿時点では城崎文芸館ウェブサイトでは確認できへんのですわ・・・

最後になりますが、2回目の拝覧時に、ギャラリートークが終わった後も弊方粘って畸庵先生の作品を拝見していたのですが、再び学芸員の先生によるギャラリートークが始まったようでした。といっても我々一般のオーディエンス向けではなく、関係者? の方々向けだったように見えました。

この2回目のナゾのギャラリートークが終わったあと、少し質疑応答みたいなのがあって弊方聞き耳を立てていたのですが、畸庵先生の作品のキーワードのひとつに「隠遁」または「隠逸」があるそうで、それにちなんで学芸員の先生も、早く退職して隠遁したい、みたいなことを仰ってたのが、聞き耳を立てていた弊方の耳に入りました。

まだまだお若いですやんかいさ! そんなこと仰らんとぜひがんばっておくんなまし~!! などと秘かに思っていたのですが、そういえば弊方も若い頃おんなじようなことを言うてたのを思い出しました。

本展担当の学芸員の先生は、安直にインターネットを検索した限りでは、曾我蕭白師匠にも造詣が深い模様で、マスター論文のテーマが蕭白師匠だったっぽい感じの情報がゲットされました。安もんのストーカーみたいですね。気持ち悪くて申し訳ございません。もしそうなら、ぜひ畸庵先生だけでなく蕭白師匠についても、何らかの展示を企画して頂ければと無責任に期待させて頂きたいと思います。

いずれにせよ本展「斎藤畸庵」展は、弊方的には2回お伺いする価値が十分にあった素晴らしい展覧会でした。

最後まで閲覧頂きありがとうございました。


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