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止まった時間を愛した、1人の香港人について。


「なぜ中国に興味を持ったんですか?」

と問われると、頭の中をいろんなキーワードがぐるぐる回って何も言えなくなるんだけど、

「なぜ香港に興味を持ったんですか?」

と問われれば、ストレートに

「男、ですかね」

なんてカッコつけたこと言いたくなる。

しかし、まあそれは事実なので、これはカッコつけてるようで真面目な話なのだ。

2019年、私は香港と出会い2024年の今まで本当にいろんな感情を味わったが、その中でも忘れられないのは最初の一年の逃亡犯条例に関する混乱期のことだ。

香港の一連のデモについては、
圧倒的なヒール役の中国に果敢にも立ち向かい、そして散っていった可哀想な香港人たち。

と言う文脈で語られることが多い日本においては、そこからずれれば人格否定も辞さないバッシングをされてしまうけど、5年たった今ならもう少し自由に言葉にしてもいいんじゃないかな、と思った。

これは、私が香港人のダメ男を通してみた香港のある瞬間の私だけの感情を書き残しておきたいから書くものだ。

だってもうすぐ忘れてしまうから。
忘れて、葬り去るにはあまりに悔しいから、書かずにはいられないのだ。

さて、始めるね。

期待されるような悲しい悲劇や民主の理想のために散っていった人たちの話は語れない。

これは端的に言えば香港人ダメ男を通してみた2019年のある一面に過ぎない。


2019年3月。

就活を早々に終わらせた私は京都で道に迷ったのを助けたことをきっかけに、人生で初めて香港人と話し、知り合いになった。

当時はまだまだ中国経済はイケイケで、
キラキラチャイナ全盛期。

北京大学や山東大学のエリートが、 

「共産党になってから中国の景気は鰻登り。
いろいろ彼らの政治に言いたいことはあるものの、これは共産党が歩んできた年月が"对"だった。(正しかった)」と言うことだと思っている。」

「中国に民主?無理無理。中国は国が大き過ぎるし、人が多過ぎるし、混乱状態になったらまた外国に攻められて大変なことになっちゃうよ。
中国人はいい人から悪い人まで差も激しいしみんなをまとめようと思ったら独裁もまあ…仕方ないんじゃないの?」


なんてことをみんなが迷いなく口に出すような時代だった。

元来政治に興味は薄い私は、

「そっかー」

と聞いていた。
まあとにかく当時は、中国人は景気が良くて景気がいいから食うものに困らずなんとなく明るくおおらかに共産党の多少横暴な政治姿勢にも目をつぶり、許容していた時代だった。

そんな人ばかりと話してきた私にとって、

「共産党は嫌い!自由と民主が欲しい!」

と、躊躇いなく口にする香港人の登場は一つの事件だった。

彼は、香港を少しでも知ってる人なら誰でも知っている香港一、ニを争う優秀な大学を卒業して、
大学に在学中は中国でも有数の大学に交換留学を行い、卒業後はイギリスの超名門大学で修士を取り、やはり香港一優秀で世界ランキングにも名を連ねる大学で研究を続けながら働いていた。

中国のど田舎でぶらぶらしながら中国語を学んだ私が関わることはなかった香港人のエリートだった。

専門が中国文学だったこともあり、中国語も流暢な北京語を話した。
広東語北京語そしてロンドン留学仕込みの英語を自由自在に操る、そんな人だった。

彼は私の人生に香港を持ってきた。

それまで大陸にしか興味がなかった私に新しい世界を教えてくれた。

後々書いていくけど、ゴミクズみたいな男で最悪だったけど、この一点において私は彼に感謝はすべきだと思っている。

何度か会ってお付き合いが始まって。

そして、デモが始まる。

700万人しかいない香港で、200万人が独裁にNOを突きつけるべく香港の街を心を合わせて闊歩する姿をFacebookの香港メディアによる実況映像の中に見ながら、訳も分からず泣いた。

彼と出会い、2014年の雨傘運動や、
文革や天安門事件の時に香港が担った役割を知り、独裁と対峙する最前線として香港が香港であり続けることの意味の重みを部外者の自分なりに感じていた。

そして、それを守り抜こうと静かにでも大胆に声を上げる香港人が輝いていて、魅了された。

どんなことがあってもこれは見届けようと思った。

様子がおかしくなったのは、立法会の占拠。

それに伴う五大要求というキーワードが出てきてからだった。

普通選挙の要求にまで及ぶ五大要求。

それを突きつける気持ちはわかった。

だけど、香港での経営母体の美心が親中派だという理論で、吉野家や元気寿司を破壊して。

金融の街香港の動脈の一つでもあるであろう大陸系の中国銀行や交通銀行の壁に落書きして、
時には火炎瓶まで投げつける活動が始まった。

そして、時が経つにつれて彼のデモへの向き合い方と私の考えは乖離をしていく。

端的に言うなら彼の思想は全てデモが正しく、デモ隊は正しいと言うことだった。

彼は大学で働いていた。
むしろ、デモ隊のメイン層の子達と日々接していた。
だから、デモ隊に肩入れするのは仕方がないことかもしれない。

自分が管理人を務める学生寮に入居している学生が、警察の指を噛みちぎって逮捕された時は本当に辛そうな声を出していた。

「彼らは香港の未来のために戦ってる。
自分は尊敬している。彼らは香港の誇りだ英雄だ」

そう言っていたけど。

厳しい受験戦争を勝ち抜いて、
これから世界に羽ばたくはずだった学生たちが、
犬死にみたいな形で逮捕されてそれまでの学歴や努力を水の泡にしてどこにもいけなくなるのをわかっていながら英雄だと送り出す彼の姿勢に疑問を感じた。

「シナ豚は死ねばいい」

そんな言葉を繰り出して、彼が差別的に大陸人をこき下ろすたびに、山東で私に中国語を教えてくれた人たちの顔が浮かんでやるせなかった。

デモは彼を取り巻く全てを破壊した。

彼の母親は大陸から来る旅行客を主な客層とする小売店を営んでいた。

だけど、大陸からの観光客が激減したことでそれは彼の家族の家計を圧迫した。

「お母さんはビジネスを見直した方がいい。
香港は自助が出来る街。大陸の観光客なんていらない。お母さんが親中派で自分は恥ずかしいと思っている」

と言われた時は思わず、

「でもそのお母さんが稼いだお金でロンドンで修士まで撮らせてもらったんじゃないの?
親にそんなこと言うなんておかしいよ。」


と言ったら、

「お金はお金だから」

と言うわけのわからないことを言われた。

そして長く一緒にいると彼のこともわかってくる。

付き合い始めた頃とんでもないエリートと思っていた彼は実は人生結構ピンチだった。

ロンドンでとった修士の学位は、
香港の博士課程に繋げることができない、イギリスの特殊な修士だったらしく、
香港で博士課程に進むには香港で修士を取り直す必要があると打ち明けられた。

これから大学に残り研究職に就きたい彼にとっては博士号は必須で、もう香港で修士に行くしか選択肢がなかった彼は香港で修士課程に進学していた。

そう。
ロンドンで修士を持って帰ってきたものの就活につまずいて職を転々とした彼はもはや労働市場に残る覚悟もなく大学で生きていくと決めていたのだ。

28歳からの修士課程。

崖っぷちのくせに、デモの実況に張り付いてSNSに中国人に対するヘイトを撒き散らかした。

ちょっとずつ見えてくる。

修士課程をこなしながら大学でのティーチングアシスタント。

学生からの評価が悪ければ継続雇用にも影響する。

評価のためには学生に気に入られる必要がある。

そして彼がとった手段は学生が入れ込むデモへの過剰な迎合だった。

デモへの参加に対して、渋い顔をする教員が多い中で全面支持の彼はそれはそれは学生と仲良くなることができたらしい。

でも、彼はいつだって口ばかり。

彼は絶対に自分ではデモに行かなかった。
なんのリスクを取る勇気もなくて。
それなのに、学生にデモに行くように言い続けていた。

彼は私と言う日本人の彼女も手に入れて、

「いざとなったら日本に行けばいい。
僕たちの子供は日本国籍にしよう」

なんて楽しそうに言っちゃって、
まさに絶対的な安全圏を手に入れた感じで。

「あの人たちは日本人の彼女がいないから頑張って移住について考えなきゃ行けない。大変そうだよね」

なんて、自分の周りの香港脱出を図る香港人たちを見下していた。

毎日毎日彼の口から今日のデモについて聞かされて、
中国人に対するヘイトを聞かされる私はそれだけでも辟易していたものだったが、彼は次の段階へ移っていった。

それは、私に「中国は嫌い香港は正しい」と言わせることだった。

もはや黙ることも許さず、
中国へのヘイトを言葉にすることを強要する彼に対して、

「お前な、私は中国人の友達がいるんだよ!あの国に恩だってある。中国がお前の住んでる香港に酷いことしてるのはそうだと思うけど、お前のそのヘイトスピーチに同調はできないし、吉野家とか元気寿司をぶっ壊してる奴らのことを民主のために戦う英雄とは言えねーよ」

と反抗してみたりもした。

それに、黙っとくことも許さずに「こう言え!そう思うだろ?」とばかりに自分の思考を押し付けて沈黙すらも許さない彼のやり方に、山東でおばあちゃんに聞いた文革のことを思い出していた。

青と黄色に社会を分断して。
今日青とされた店や人には容赦ない攻撃が加わった。

警察の個人情報が家族の顔写真と一緒にばら撒かれた。

「民主っていうのは、いろんな意見がある中で自分と違う意見もあるけれど、それがどんなに嫌な意見でも暴力には訴えない。ちゃんと言葉で解決することを言うんじゃないの?」

自分の気に入らない意見を持つ人に「親中派」と言うラベルを貼り付けて、言葉で、物理的に破壊することを「デモ」と言うことに嫌悪感すらあった。

そして、2019年11月。

コロナ前最後の香港渡航に出かけた時、破壊された街を夜1人で歩いた。

剥がされた煉瓦。
落書きまみれの電柱。

その全てが綺麗とは思えなかった。

深いため息をつきながら、破壊された街を片付けるのもまた香港人。

大陸系の銀行のストラップを首からかけたサラリーマンが、壊されないように防壁で守られた銀行から出てきてやり場もなく空を見上げていた。

その姿の方がよっぽうど心に訴えかけるものがあった。

その夜。

「最近論文はどう?」

と、彼とご飯を食べながら聞いたら。

「今はデモで香港が大切な時なのにそんなことしてる場合じゃないでしょ?」

と言われた。

「香港人は皆香港のために戦うべきなんだから」

もりもりご飯を食べて。
今夜もデモには行かないで私にぐだくだと自分の持論を押し付けることが彼の戦いなのだろうか?

そんなことを思った。

「ボクの大学の時の友達で、金融の仕事してた子がいてね、その子今回仕事辞めてロンドンに行くんだって。民主は魂だからそれがない香港でいくら給料高くても暮らしたくないらしい」

「公務員になった友達は仕事を辞めてカナダに行った」

嬉しそうな声で語っていた。
自分と同じように名門大学を卒業して、
香港で社会的な成功を収めた彼らがそれを手放すことが、嬉しくて仕方がないようだった。

「デモがきっかけで長く会ってなかった大学や高校の友達と話せた。香港は一つなんだよ」

そうだよね。

デモがなくて彼らが普通に外銀の仕事や教師の仕事や医者の仕事を続けていたら、
大学でパートタイムの仕事して今更修士やってる職歴のない君は旧友との差が辛すぎて面目なくて会えないもんね。

あらゆる人やモノがパニック状態で麻痺していた。

2019年から2020年にかけて香港は停止していた。

多くの人が正常な判断ができれば下さないであろう判断を下し、キャリアや人生設計を破綻させていった。

そして、それは人生につまずいてどん詰まりだった一ポスドクにもなれない、大学でのパートタイムジョバーだった彼にとっては愉快で幸せで平等な時間だったことが別れた今ならすごくよくわかる。

彼は止まった時間を愛していて、
それがずっと続いていけばいいと願っていたのだ。

しかし、どんなことにでも終わりあるようにデモは終わる。

彼のような人間が煽り、無責任に肯定してデモに送り出した若者の数えきれない人生が壊れた。

警察の指を噛み切った彼の学生には5年の懲役が下った。

彼は無傷だった。
一度もデモに行くことなく、自分が何をしていたかもきっともはや覚えていない。

デモの時は、遠距離がつらくて

「いつちゃんとフルタイムの仕事につくの?
もう始めてる修士はわかるけど博士行く意味ある?若いうちにアカポス以外の道を模索できないか?」

必死の私の問いかけも

「香港は私の家!今家が大変なのにそんな小さなことでワーワー言うなんてお前は頭がおかしい」

と言っていたけれど。

結局香港が大変な時を終わって、2024年になって彼がようやく修士が取れたと言うことをこの夏風の噂に聞いた。

なんだよ。

デモが終わっても、論文書けてなかったじゃん。

と乾いた笑いが漏れた。

5年かけて修士号取るやつなんて聞いたことない。

結局デモを言い訳に怠けていただけだったと言うことが皮肉にも証明されてしまった。

香港社会の片隅で。
2度と自分には手が届かない輝かしいキャリアを築き上げる同級生を見上げながら、どうしようもない自分の人生を抱きしめていた彼。

しかし、汗水垂らして働く覚悟も根性もないからなんとなく格好つく大学にパートタイマーとして居残り続ける彼。

そんな彼にとって、あの2019年の混乱の瞬間は。

同級生たちは手に入れて自分には手に入らなかった輝かしいキャリアが無意味になり、
中国という巨悪の敵を相手に仮初の団結に香港人というだけで仲間入りできたあの時代のみ彼は孤独ではなかった。
それは彼にとってなんとも言えない甘く幸せでワクワクした時代だったに違いない。

ただデモを盲目的に肯定することで、誰もが簡単に英雄で正しさを手に入れられた狂った事態が終わった。

大きな犠牲を払うことで終わった。

そしてその犠牲は別にデモ、一連の混乱を支持したわけではない香港人も一緒に払っていく代償だ。

コロナが終わり、3年ぶりに香港を訪れたけど。

香港は死んでいなかった。

淡々と明日も明後日も続く連続性をこなして、
そこにただ存在しているだけだった。

それはどこの街でも同じで、
どことも違うはずだった香港がそう見えたことが切ない。

それでこの話はおしまい。

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