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一生懸命って尊いと思う。


今日、新年始め。
やっとコロナの隔離も開けたということで昼から大学時代の同期の落語会に行ってきた。

何を隠そう、私は学生時代関西の某大学で落語研究会に所属していたのである。

それなりに頑張って、それなりに落語もして。

でも、それなりだった。

落語を聞くのも見るのもやるのもそれなりに好きだったけど、私にとっての落語は今にして思えば大学時代にぶっ飛んだ味をつけるスパイスのような意味合いが強かったように思う。

学部の勉強も同じだ。
日本文学の世界は好きだったけど、
文学部の学徒らしくそこに没入するには至らなかった。

さらにいうなら中国語も同じだ。
なんとなく話せるようになったけど、後一ツメが足りない気がする。

落語も学部の勉強も中国語も、
常に私より一生懸命本気で向き合ってる人がいて、私はその人の周りをフラフラとうろついてやった気になってただけな気がする。

だから、
落語にしても日本文学にしても中国語にしてもどれを取っても自信をもって、「これは誰にも負けません!自信ありますわ!」とは言えない。

そんな私のぼんやりとした大学生活だが、
1番心残りなのは卒業論文だ。

江戸時代の某文学作品と廓文化と落語を絡めたテーマだったが、
この卒論執筆の時期に私は香港人の彼氏に振り回されて恋愛脳になってメンタルフルーツポンチで何も手につかなかった。

文字数を埋めるだけの引用を繰り返し、
自分でも稚拙だなあと思うまとめを走り書きして提出した。

評価は当然芳しくなかった。

それでも、仏のように心が広い私の教授は、
歯切れの悪い私の口頭試問の最後に、

「まあ色々言いましたけど、
あなたが大学生活本当にいろんなことを頑張ったことはわかってます。
あなたの関心や夢がこの極東の島国だけにとどもるものでなくて世界にあることも。
だから、これだけは覚えて大学を卒業してください。

あなたは、日本の京都にあるこの歴史ある大学で4年間日本文学を学んだ。

この事実はあなたが世界のどこに身を置いても、歳を重ねても確固たる真実です。

私はそれを保証するために今日あなたと口頭試問をしました。

ぜひ卒業後もそのことを頭の片隅に夢に向かって頑張ってくださいね」

と言って笑った。

泣きそうになりながら教授に頭を下げて、
口頭試問の会場をでた。

空を見上げると2020年の2月。

コロナの足音が遠くに聞こえる京都の空はどこまでも秋晴れに晴れ渡っていた。

恥ずかしくて消えてしまいたかった。

教授のあのまっすぐな目と言葉に報いるようなものは私は出せなかった。

書けなかった。

つまらない恋愛で自分の感情一つコントロールできなくて、卒論という一世一代の作品を残す機会を失ってしまった。

それがどこまでも深い喪失感としてずっしりと腹に残った。

そして2023.1月7日。

私は落語研究会の同期が落語会をやるとのことで同期が「客が0人だったら困るから見にきてくれよー」と泣きついてきたので見に行くことにした。

彼は、私と正反対で落語とその文化に大学生活の4年間を丸々捧げて落語に没頭している子だった。

いつも部室で片っ端から膨大な上方落語のテープを聴きまくり、落語関連の書籍を読み耽っていた。

私もプロの落語を見に行ったことが難度もあるがそれはほとんどが彼が「蒼子さーん、見にいこうよお」と出不精な私を連れ出してくれたことで見に行けたものである。

その彼が、

「今回俺は新作やるんや!」

と張り切っていたので、今回の寄席は本当に楽しみだった。

落語に詳しくない方のために説明すると、
落語の分類の一つとして、「古典と新作」というものがある。

古典とは、
寿限無(じゅけむ)とかまんじゅうこわい、とかが有名なんだけど、古くから伝わってきてるお話を演じるものである。
だからと言って全員同じわけではなく演じる人によってオリジナルのギャグが入ったり、解釈が変わったり、その違いを比較して楽しむのも醍醐味となってくる。

対する新作とは、
演者が自分で作った落語を演じるものである。
これは演者のオリジナルになるので作り上げるには古典とはまた違った膨大なエネルギーが必要になる。

新作をやる学生は少ない。
それはやはり1から何かを作り上げるのは大変だし、そこまで自分のセンスに自信を持って勇気を出せる学生が少ないのもあるし、
そもそも古典も死ぬほど面白いので古典を自分のものにすることに夢中になってればあっという間に四年は経ってしまうというのもある。


落語会に呼んでくれた彼は、学生時代から頑なに古典落語のそれもしっかりと形を整えた落語をやってきた奴だったので、その彼が「新作やるぞ!」というと見に行きたい!という気持ちがむくむく湧いてきて興味本位で見に行ったのだが、その彼が作った新作落語が思ったより破壊力がすごかった。

「このネタはね、僕の卒論の研究を元に作ったネタなんですよ」

という一言ともに始まるネタには、
彼が江戸の廓や遊郭を卒論のテーマとして研究するにあたって使った地名や書籍の中のエピソードが散りばめられていて、それが現代のくだらないギャグと混ざり合っていて、彼の等身大のおかしさと知識が詰まっていてすごく面白かった。

奇しくも、
彼の卒論テーマは私の卒論のテーマと似ていた。

私が適当に流し読みして引用する部分だけを付箋を貼っていった辞書のような厚さのある「色道大鏡」を彼は丹念に丁寧に研究していた。

そして、その書籍の中にあるエピソードを自分の中で丁寧に噛み砕いて自分の大好きな落語の世界にその知見を連れてきていた。

その落語を聞けば、彼がどれだけ緻密に真剣に頑張って研究課題に取り組んでいたのかがひしひしと伝わってくるのだ。

きっと、「卒論でいい評価が欲しい」とかそんなことは彼は思ってなくて、
知的好奇心と大好きな落語の廓話の源である江戸の文化にワクワクしながら浸り込んだ結果が彼の今私の目の前で演じてる新作落語なのだと思う。


彼の中にしっかりと自分の江戸の世界が出来上がっているのである。


それは、なにか一つのことに没頭して直向きに近道をせずにコツコツコツコツと向き合ってきた人間だけが出来ることだと、痛いほどにわかった。


そう。
何でもかんでも腹7分目くらいで及第点を取っていく私と彼は真逆なのである。

卒論も文字埋めに終始して逃げ腰だった私は、
せっかく4年間日本文学部と落語研究会にいたのにすごく薄っぺらいものしか残ってない。

でも、彼はそうではなくてしっかりと4年間(あ、留年したから4年半か)自分の中に落語と日本史学を溜め込んだんだなあと思った。

そして、大学を出て3年半経つ今もこうやってたまに落語会を開いてコツコツと続けているのである。

彼を見ると私はいつも少し後悔するのだ。

もっともっと、目の前のことに丁寧に向き合えば良かった、と。

落語も、日本文学の勉強も。

いつも就活とか、将来とか、
遠い華やかな世界の影を追い求めることばっかり優先して、大事なことをぽっかり置き去りにしたまま卒業してしまった気がしてる。

時は戻せないし、
私はこの置き去りにしてしまったものを何で埋め合わせて、どうやって納得していくのか答えは見つけられないけれど。

高座の上で楽しそうに学生時代と変わらず好きなことを好きなだけ喋ってはしゃいで、
今も変わらず大好きな落語に囲まれて幸せそうな彼を見ると、

何か一つのことに夢中になって一生懸命になることがどれだけ尊くて、人間を輝かせるのかを目の当たりにさせられてしまう。

私も、いつかそうなりたい。

遠い将来とか未来のよく分からない不安とか、
ネットニュースとか、
つまらない国際情勢とか、
他人からどう見られるかばっかり気にしてる自分を突破して、自分の中に確固たる好きなものと、軸を築き上げてみたいと。

それはすごくぼんやりとしていて、ずっと思っていたことだけど今日彼の落語を見てひしひしとそれを思った。

大阪に帰る帰りの電車の中で、
英語教室や、投資や、脱毛や、週末MBAのチカチカとした広告たちが私のように自分の中に確固たるものがなくてどうしようもない空洞を抱えた者たちの視線を攫おうと手招きしてる。

彼ならば、きっとこんなものは目に入らないのだろう。

そう思って目を閉じた。

そうでもしないと私は英語教室の広告かあるいは週末MBAの広告に連れて行かれてしまいそうになるから。

一生懸命になれるものが欲しいと思った。

例えちょっとめんどくさくてしんどくても、
それに向かって一生懸命進んでいけるようなものが自分にもあればもっともっと自由になって自分の価値観で幸せになれるのにと。

空っぽな私を抱えて帰路についた。

2023はその空っぽを少しでも塞ぐ何かの影を掴めるようになればいいと思いながら白い息をふわふわと空中に吐きながらいつまでもいつまでも高座の上でキラキラしてた演者たちのことを頭の中で反芻した。

そんなピリリとする年明け。

落語に出てきた山椒みたい。



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