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全てのものが日々新しいそんな世界を私は信じる

2009年。
14歳の私は日本最大の合唱コンクールの全国大会の舞台に立っていた。
その大会で私の在籍していた中学校合唱部は全国3位という快挙を成し遂げた。

中学2年生にして全国3位という快挙を成し遂げたことに対して、
同級生の仲間たちは「うちらの代では絶対全国制覇!」なんて酔いしれて。

でも私はこの表彰式の興奮に周りが歓喜にわく中で、

「よし、辞めた!!」

と、決意したのであった。

全国大会は中学2年生の秋真っ最中11月。

そう決意して実に4ヶ月後の中学2年の3月に私は本当に退部届を提出した。

合唱部は全国常連校。
もしも3年の12月まで部活をしていたらずっと目標にしている県下唯一無二の進学校の志望校には行けない。
自分には両立の自信がないだのなんだの言って、私は派手に退部宣言をぶち上げたのだった。

が、この私の宣言に教師たちは大騒ぎ。

何回も廊下に立たされ、密室に閉じ込められ、退部をしないように喚き立てるような説得は続いたものの、私の意思は堅かった。

今にして思えばというか、その時すでにしっかりちゃっかりはっきり自覚していたのだが、
私自身もう疲れ果てていて部活を辞めたかったのだ。

いじられキャラという名の下に女子特有の同調圧力の鬱憤を発散されるミーティングで袋叩きにされるサンドバック役はもう嫌だった。

ミスも含めて隙が多い私はいつだって格好の袋叩きの的だったし、
そのくせあくまで田舎底辺公立中学校のなかでは成績は良い方だったから教師は私に期待していた。

「あの、蒼村がいる合唱倶楽部ですよー」

と顧問の音楽教師が私を広告塔代わりに使うのも嫌だった。

なによりも、名門という鎖に縛られてがんじがらめになり自分達から檻に入り、退屈な曲しか歌えないのもうんざりだった。

指揮者の顧問の言う通りの人間の鍵盤になって演奏することにはもう疲れ果てていた。

そんなところにちょうど来た高校受験という別の船。

私はさっさと乗り移った。

もともと合唱部に入部した理由も単純で、
小学校から継続していた経験者が唯一いない部活が合唱部だっただけのことだ。

入部してからは演奏で個性を出すことはとにかく禁止。
先輩や顧問の指導のもと徹底的に個性を消されるように声色を作り変えていった。

全国クラスの演奏ができていても自分じゃない誰かが演奏しているようで何か納得がいかなかったし、全体を通してもやりがいがなかったし達成感もなかった。

全員が教師から与えられた曲をただなぞるように指揮に従い退屈な楽譜をなぞった。 

とにかく個性を殺して、学校に全国大会出場という垂れ幕をかけるためだけに人間の鍵盤になるのがもう嫌だった。

「もう嫌なんです。疲れました。辞めます、絶対」

と言った私に対して、顧問の教師が

「はー、根性なかねえ。高校受験くらいで部活ばやめるとね。もー2度と歌わんでよか。
周りの恩や思いを裏切ってから、もうよかよ。
やめなっせ。」

という最後の言葉を投げつけられて私は退部した。

やっと重荷を下ろせたと思ったし、
毎日陰湿なやり取りが繰り広げられる部室に閉じ込められてパート練習をしなくて済むようになると思うともー嬉しくて嬉しくて、嬉しいはずなのに。

もー2度と歌わんでよか。

という一言だけはナイフのように心をずぶりと突き刺して、私の心に鉛の弾丸のような嫌な重みを打ち込んでいった。

さて、私が通っていた田舎の公立中学校は全体的に治安が悪く、勉強というものに今この瞬間を預けようという若者は比較的少数派で、みんなが今を生きていた。

だから、高校生の彼氏とキスをしたという同級生の綺麗な女の子の話を聞いてドキドキしたり、
闇チャリに後輩を乗せて教師に補導されて親を呼び出しになったけど親がガムを噛み噛みしながらやってきて教師がビビった、なんて話を聞いて笑ったり。

本当におおらかな環境の中で暮らさせてもらったし、そんなおおらかな環境だったから私が何をしていても周りの奴らも何にも気にしてなくて、

「蒼村は勉強好きかねえ。俺は無理ー」

なんて言葉をかけられながらも基本的にはほっとかれていた。

彼らの生きがいはもっぱら部活で中体連で活躍することを夢見て日々スポーツに勤しんでいた。

田舎なのにそんなに荒れ果てた不良が出てこなかったり、そこまで性的に乱れたことが起きていなかったことは、私の中学校がほぼ強制的に全ての学生を部活にぶち込んでいたからな気もする。

中学2年生の3月に部活を辞めて、
みんなの中体連が終わる中学3年の7月になるまで私はダラダラと少し居心地の悪さを感じながらも学校が終わったらすぐに家に帰れる生活を謳歌した。

音楽室から聞こえてくる歌声に未練は全くなかった。

7月を超えて運動部が部活を引退すると、
学校の治安は目に見えて悪化した。

無駄に有り余ったエネルギーで自由を手に入れた15歳たちは暴れ回り青春をあらゆる方向に向けて謳歌していて、ヤンチャ揃いだった私のクラスはとうとう学級崩壊に陥り、授業を受けたい人は前の方に固まって座って授業を真剣に受ける、みたいな謎制度が確立されつつあった。

後ろの方に行く勇気もなく、前の方で授業を聞きながらぼんやりと秋に変わりつつある10月の空を見つめていた。

さて、一般的に合唱部とは地味で存在感のない部活だが、その合唱部が唯一存在感を発揮するのがクラス対抗合唱コンクールだった。

その年の優勝候補は隣のクラスの4組で、
合唱部の学生が5人もいるクラスで、私の学級崩壊クラスとは格が違うほどに統率が取れていた。

私も合唱部だった頃は喜び勇んでこのイベントに力を入れて所属していたクラスで2回とも優勝したものだったが、もはやこの学級崩壊クラスでは何ができるというのだろう。

合唱部の学生も1人もいないし、居残り練習しなくて良いからラッキーとすら思っていたが。

事態が大きく動いたのは、
音楽の授業で合唱コンクールの役割分担を決める時間で、クラスで一番ヤンチャで存在感がある男子が指揮者に立候補したのである。

「せんせえ、俺指揮者やるー!」

クラスがどよめいた。

「えー、お前なんで!そんな真面目なやつじゃねえだろ。しこってんな!(かっこつけてんなよ)」

「まじめちゃんかてー」

と仲間の男子のヤジが飛ぶ中で、彼はニヤリと笑いながら

「バカだなあお前ら。これが最後の内申点チャンスなのよん」

と言い放った。

「せこ!」
「ずる!おまえあたまいいな!」
「先生俺もそれやりたい!!!」

彼は、端正な顔立ちで色が白く背がスッと高くて学年中の女子の憧れでサッカー部で。
男子を威圧し女子にはモテて、彼がぴくりと眉毛を動かせばみんながそっちに流れるようなそんな独特な存在感がある人だった。

3日後そんな彼が、ブチギレながら

「畜生!」と教室に入ってくるなり興奮しきった様子で、机を蹴飛ばした。

ハアハアと肩で息をしていて、賑やかだった教室が真と静まり返った。

「どったの?」

彼と仲の良かった同じサッカー部の学生が声をかけると彼はぽつりぽつりと話し出した。

各学級の指揮者が音楽室に集められて、10曲音楽を聞かされてその中から自分のクラスが歌う曲を決める会というのが開かれて、かっこいい曲や素敵な曲は全て取られてしまって、ジャンケンで負けた彼は我がクラスにとんでもなくダサい曲が割り当てられたことを絞り出すように口にした。

当然、彼は抗議したが教師は受け付けず

「私が用意した曲が嫌ならお前が歌いたい曲自分で探して持って来い」

と言ってきたらしい。

当然の対応と言えるが、スクールカーストトップに君臨していた彼にとってダサい曲で指揮をやってクラスが最下位になるなんて耐え難い屈辱だったらしく、怒りが収まる様子がない。

その時クラスの派手な女子とぱちっと目が合って、

「あ!蒼子がいるじゃん!蒼子は元合唱部だよ。
蒼子に探してもらおうよ」

と言い始めた。

え?私?無理無理。

そう思ったけどサッと集まるクラスの視線が怖くて何にも言えなくて。

結局その日、クラスのために私は新しい合唱曲を探すことになった。

翌日私が持って行ったいくつかの曲を借りてきたラジカセでみんなで聴いた。

微妙な反応が続く中で、

一つだけ、みんなが途中で辞めずに最後まで聴いた曲があった。

曲が終わると、指揮棒を握る予定の彼は静かに

「ばりいいな、この曲」

と言った。

それで、私たちのクラスの曲は「信じる」という合唱曲に決まった。

学級崩壊クラスだったけど、それは教師にとってはそうだけど。

クラスのキングの彼がやるというならば、
みんな回れ右してとんでもない統率力を発揮した。

私は男子とアルトとソプラノに分かれた三つの塊をキーボードを持って次々回って音とりをさせるところから始めた。

谷川俊太郎が作詞したこの曲の、分かりやすく限りなく優しく。

15歳が口にするにはもう少し恥ずかしい「信じる」という言葉を大きな声でみんなで声を合わせて口にして、歌にすることをみんな楽しんでいた。

笑うときには大口あけて
おこるときには本気でおこる
自分にうそがつけない私
そんな私を私は信じる
信じることに理由はいらない

地雷をふんで
足をなくした子どもの写真
目をそらさずに
黙って涙を流したあなた
そんなあなたを私は信じる
信じることでよみがえるいのち

葉末の露がきらめく朝に
何をみつめる小鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を私は信じる
信じることは生きるみなもと


私は信じる

谷川俊太郎 信じる


「地雷ってなに?」

と男子たちに聞かれた時には、

図書館から地雷で足を無くした子供の写真を本当に借りてきた。

「うーわ、ぐろ!」

という言葉が出る中で、指揮者の彼だけがその写真を見つめていた。

彼が見つめるからみんなで見つめた。

「修学旅行で見た長崎の原爆の写真も酷かったよね」

「沖縄で見たのも悲しかったよね」

ぽつりぽつりとそんな言葉を交わして、その後みんなで信じるを歌いながらみんな少し泣いた。

合唱部で、全国大会を目指していた頃。

わざとらしく高い声で歌詞を朗読させられていた。

その目的は、歌詞の意味を理解して心に入れて心を込めて歌うというものでいろんな強豪校で取り入れられている手法だけど、私はどうしてもこのやり方は好きじゃなかった。

どうして声に出して読めば心に歌詞が入ってくるのか。

仮にそれが正しいならどうして歌って入ってこないのか。

たった一枚の写真を見て、そこから目を逸らさずにみんないろんなことを考えて、
そこから目を逸らさない意味を考えた。

みんなで一つの写真を見ていろんなことを思い目を逸らさずに黙ったままにそれを歌に詰め込んだ。

みんなで歌ってたとしても心の中に自分の領域はあり続けて、それを思い思いに歌に詰め込んで合わさって一つになるのが合唱の面白さなのだと、この日泣きながらみんなで歌った「信じる」を通して私は初めて学んだ気がする。

合唱コンクールが間近になると私は練習の時指揮者の彼の隣に立ち、指導をするようになって行った。

「もう2度と歌わんでよか」

と言われたのに、歌うのが楽しくて仕方がなかった。

合唱コンクール前日に遅くまで残ってみんなで練習した。

最後の合わせではとんでもなく素晴らしい出来栄えで、とうとう私はついに最後まで曲を止めることはなかった。

歌い終わった後、恍惚とした顔で指揮を振っていた彼が振り返る。

「今の、ばりよくなかった?」

「うん。。。」

わあっと盛り上がり、みんなで手を取り合った。

「優勝、できると思う!」

というと、さらに盛り上がった。

「蒼村すげーよ!お前マジでサイコー。
俺ら問題児揃いをここまでするとかマジ名教師」

「いや、教師じゃねーし…」

少し泣きそうだった。

あー、合唱ってこんなに楽しかったか。

全国大会まで行ったのに何一つわかっていなかったなあ。

ざわつく教室の中で、

「はいちゅうもくぅー」

と彼が左手を挙げて叫ぶとぴたりと雑談が止む。

「お前ら、マジで俺と蒼村についてきてくれてありがとう。しょーみだるかった時もあったと思うけどお前らがついてきてくれたからここまでこれた。明日は絶対ゆうしょーするぞ!俺はお前らを信じてる。お前らは俺を?」

「信じてるー!」

みんなで叫んでその日の練習は終わった。

結局次の日私たちのクラスは、強豪の3年4組を破って、10クラス中一位に輝いた。

他校から来た音楽の先生は、私たちのクラスの歌を「歌詞をそのまま歌っててそれがすごく心に来た」と言った。

みんなで叫んで、みんなで泣いた。

賞状とトロフィーを持ってみんなで教室まで走っていき、私はみんなにもみくちゃにされながら、
心に入っていた鉛のようなものをやっと取り除くことができたと感じた。

みんなで肩を組んで、信じるを歌った。

「葉末の露がきらめく朝に
何をみつめる小鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を私は信じる
信じることは生きるみなもと」

歌いながらみんなで笑ったり泣いたりした。

勉強する人しない人。
優等生と問題児。
やんちゃな子も真面目な子もおとなしい子もみんなで一つの歌を歌った。

私はその後第一志望の高校に進学し、
結局合唱部が廃部になっていたその高校で合唱部を再び立ち上げて、その後も合唱を続けていくことになった。

余談だが、次の年「信じる」は各学年の大人気楽曲となり、全クラスが歌いたがったので「課題曲」として選ばれたらしい。

いろんな曲を歌い、
いろんな舞台で歌い、
いろんな賞を受け取った合唱人生だったけど、


あの秋の日、片田舎の中学校の体育館で歌った「信じる」は私が生涯忘れない演奏となった。

「全てのものが日々新しい、そんな世界を私は信じる。」

どんな時でもそんな強い思いは忘れずに胸に持っていたい。

笑う時には大口開けて、怒る時には本気で怒り自分に嘘がつけない私と仲間を信じて歌った15歳のあの瞬間は28歳になった今でも胸に残ってる。

谷川俊太郎先生の残した数々の言葉たち。

きっとこれからも日本のどこかで「信じる」という曲が歌われるたびにその言葉は蘇り誰かが誰かを信じることがなんなのかを静かに示してくれる。

そんな気がする。

おしまい。

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