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black pinkについて思うこと。


kpopが好きだ。
現在27歳ですっかりアラサーだけど、
高校生から追いかけてるからもう10年追いかけていることになる。

現場に足を運んだり、CDを買い込んだりするような、いわゆるコアなファンではないけどゆるく新曲を追いかけてたくさんのグループの結成と解散を見届けてきた。

私が特に好きなのは、kpopの女性アイドルたちが見せるいわゆるガールズクラッシュと呼ばれるコンセプトである。

ガールズクラッシュ、とは異性ではなく同性である女性にも衝撃を与えるような魅力的な女、を意味するらしいけど、

簡単な言葉で言い換えるなら、

「女が惚れるくらいかっこいい女」

というコンセプトである。

男性に好かれるような無難でかわいい服ではなく、着たい服や濃いメイク、奇抜なファッションセンスで女性が自分がなりたいかっこよさを体現するコンセプトは日本のアイドルにはない魅力に溢れている。

4minute の代表的なガールズクラッシュコンセプト曲
「CRAZY」のヒョナ。

このガールズクラッシュの代表的な存在が、
2ne1と言われている。

MVの中ではガムを噛みながら金属バットでガラスを叩き割り、
衝撃的な髪型で、最後には散弾銃をぶっ放す圧倒的な治安の悪さを見せつけた彼女たちの代表曲は、
「I am the best (私が一番イケてる)」

見たことないような濃い化粧とファッションで、
「私が一番いけてる!」と叫び散らかすこの歌はめちゃくちゃカッコよくて、kpopを代表するヒット曲となった。

この頃のkpopは少女時代やKARAなどの綺麗でかわいい女の子たちがピリリと揃ったダンスを踊る、というのがスタンダードな時代だった。

2ne1を語るときはどうしても彼女たちの容姿に触れる必要がある。

4人の中で、「お!綺麗な人だな」と目を引くのはダラぐらいだが、そのダラですら髪の毛を刈り上げたり丁髷にしたりやりたい放題。

それでも、ミンジのダンス、CL様のラップ、ボムの歌唱力で、当時kpopアイドルがこぞって美脚アピールをし、美しくない者の存在が置いてけぼりにされる最中で

着たい服を着て、
したいメイクをして、
自分の顔に自分の表情を載せて、

「私が一番いけてるのよ!」

と、歌ったことの意味は想像以上に大きな大きなものだったのである。

彼女たちの届けるメッセージは、
デビュー曲のFIREで「私は今日のようにいつまでも自由でありたい」と歌ったように、

固定概念が蔓延る社会や保守的な考えを持つ人たちから自分自身を守り、愛するための強さなのである。

しかし、そんな2ne1先輩(尊敬のあまり勝手に先輩呼び)が活躍していた時代も今と比べるとまだkpopの容姿に対する自由度は高かったようにも思えるほど今のkpopは本当に見ていて疲れるというか、息苦しい空間になってきていると思っている。

そして、その息苦しさを加速させた存在こそがこの2ne1と同じ事務所から出てきた後輩女性アイドルのblack pinkだと考えている。

なので、今日はそれについて書いていきたいと思う。

突然だがblackpinkは美しい。
4人組だが言葉は悪いがストレートに言わせていただくと、「ブスがいない」

全員それぞれタイプの違う美人で、
そして全員がスラリとした無駄な肉ひとつない細々としたスリムな体型を持っている。

そのスタイルの良さは出てきた時は衝撃的であんだけ痩せ細ってる女の子がゴロゴロいる韓国アイドル界でもその細さと美しさで頭一つ抜け出ていた。

その美しさから、完璧なダンスとパフォーマンスを繰り出し、確かにデビューした時から突出した存在だったが、blackpinkという子の存在が私にはどうしても好きになれなかった。

私は長いこと韓国アイドルをゆるゆる追いかけ続けてきたが嫌いだったアイドルグループは一つもなかったが、このblackpinkだけは私は拒絶反応が出てしまった。

それは、彼女たちの出してくる曲の中に入ってるメッセージが一貫して他者の存在がなくして成り立たない。

簡単な言葉で言うなら、
blackpinkの存在は取り巻きなくして成立しないのである。

blackpinkに陶酔して「ブルピン最高!美しい!」と叫び続ける者たちの存在によってのみ彼女たちは存在する。

「いや。どんなアイドルだってそうだろ!」

と言われるかもしれないが、もう少し話を続けさせてほしい。

blackpinkのメッセージにはとんでもない毒があると感じている。

その毒は、若い女の子たちに自分で幸せの基準を決めることを放棄させて完璧でないところを憎むように仕向けてしまうというものだと思う。

私が1番嫌いなblackpinkの曲はpretty savageである。
(私はこの記事を書くためにblackpinkの曲を全て聞き直したよ!)

まず、この曲の中には、
「私は生まれた時から痩せてて綺麗だ」

先にも書いた通りblackpinkはkpopアイドル界でも群を抜いて完璧なモデル体型の持ち主だ。

そんな彼女たちの口から放たれる言葉がコレなのである。

でも、私がここで言いたいのは体型をdisる歌詞が悪いと言うことではなくて、
blackpinkの曲全体に登場する回数が多い

「あんた」

と言う言葉がとにかく引っかかると言うことだ。

「あんたには無理」
「あんたと私は違う」
「わたしがあんたでも私が羨ましいし私になりたいだろうね」

曲名の列挙は控えるが、
blackpinkの曲ではひたすらこの「あんた」と言う存在を否定して自らの方が優れていることを強調する言葉がずらずらっと並ぶのである。

blackpinkの曲に出てくる「あんた」とは何者なのだろうか。

kill this loveやplaying with fireのような明らかなラブソングはさておき、

pink venom、DDU-DU DDU-DU、先述したpretty savageなど他の曲の中の「あんた」とは、

blackpink以外の全てのアイドルと大衆、存在を指すのだと解釈している。

blackpinkの世界観の中にはblackpink自身とそれ以外の存在という二つしか存在せず、
blackpinkは自分たち以外の存在を全否定し、
「私たちが1番優ってる」というメッセージを打ち出すことでカリスマを演出しているのである。

太ってる人を否定することで痩せている自分を勝たせる。
美しさを誇示することで美しくない者の居場所を奪う。
数字や再生回数を誇示することで、それ以外の土俵で戦う者たちを自らより劣る存在と位置付ける。

blackpinkのメッセージは「否定」が圧倒的に多くそのほとんどを占めているのだ。

故に、blackpinkからのメッセージを素直に受け取るのであれば、受け取ったものは自らの存在を否定される気分になりゆっくりとその毒を体の中に溜めていくのか、
若しくは「ブルピンはkpopの女王だよ!」と盲目的なファンになるかのどちらかなのである。

blackpinkの世界の中で居場所を見つけるためには、彼女たちの暴力的な価値観に支配されて信者になるしかないのである。

しかし、blackpinkの世界ではblackpinkが全ての面において女王でありトップなので、自己肯定感は本質的に高まらないしblackpinkから受け取れるものは特にない。
そして、「blackpinkという女王様のファンの自分」というところにアイデンティティを見い出して、blackpink以外のアイドルや存在を否定する行動を繰り広げる。

blackpinkという女王の従者になることで特別な自分になったような気分になって、その他のグループを「私たちの女王様(black pink)には勝てない」と落とすことによって自分も何者かになれた気分になれるのである。

blackpinkの否定する「あんた」にはそのファンの子たちですら入ってるというのに、だ。

さらにpretty savageの中に出てくる歌詞で、
「討論はしない。疲れるだけだから」と言うところがある。

この「討論はしない」と言う言葉はpretty savageだけではなく他の曲でもちょくちょくでてくる。

この、討論はしない

と言うメッセージも他者を否定するだけ否定して、自分は相手の言葉を聞き入れるつもりはない。
私に対するマイナス感情は全て嫉妬であるというスタンスの表れであるといえよう。

昨今、何か自らに不都合なことを指摘されると
「私に嫉妬していじめる」と言う発想をする人が増えてきている。

例にも漏れずblackpinkのファンの言動にも「嫉妬してるからって文句を言うな」「嫉妬してるだけ」という言論が目立つ。

これも、コミュニケーションや相互尊重を真っ向から否定しているスタンスだが、blackpinkの世界観の中では彼女たち以外の言葉は全て嫉妬から出てくる妄言扱いされてしまうのである。

また、最も問題だと思うことは、pretty savageの歌詞の中でいくと
「野蛮で何が悪いの?野蛮でかわいい女の子なの」と言うところだ。

この曲に限らず、「あんた」を攻撃し暴言の限りを尽くした後で「私はかわいいの」で結ばれるパターンは多い。

月並みだが「可愛ければ何をしてもいいわけでもないし、何を言ってもいいわけでもない」という当たり前のモラルを踏み躙るようなスタンスを私はどうしても好きになることはできない。

「周りの目を気にしない強い女最高」というファンの声は大きいが、
かわいい、ということだけを根拠に自らの暴力性を肯定する行為は、美貌という人間のごく一部であるべきものを価値の基準の主軸であり唯一無二のものにしてしまう。

そうなれば、その人が行った努力やが思いもすべてルックスの前に完全否定されるのだ。
だって、blackpinkの世界の中では可愛くて美しければどんな暴力性も許されるからだ。


以上のメッセージを受け取り、価値観を自分の中に住まわせると恐ろしいことが起こる。

それは、
「完璧な者」以外は愛せず存在価値を感じられなくなってきてしまうということである。
たとえそれが、自分自身であってもだ。

kpopは昔から異様なほどに外見にこだわっているが、その反面昔は「ビジュアル担当」と言う言葉もあって一つのグループの中に1人か2人だけメンバーの中に飛び抜けて美しい子がいてその子がそのグループのビジュアルを担い、他の子はボーカルやラップやトークやバラエティなどさまざまなところで頭角を見せていった。

しかし、blackpinkの全盛期以降、デビューするアイドルグループではもはや全てのメンバーが非の打ちどころなく美しくいつのまにか「ビジュアル担当」と言う言葉は死語になりつつある。

kpopという場所に「完璧ではない者」の居場所は消失しつつある。

(もちろん私が大好きなmamamooのファサ様や、
gidleのソヨン姉さんのようにそこに真っ向から抗い挑戦し続ける人たちも一部にはいるのだが…それはまた別の機会に話すとして)

私個人としては27年生きてきて美しかった瞬間はひとつもない。
学生時代はお笑い担当と言われていたし、
こうやって1人でちまちま文章を書き殴っているのが好きな女で、モデル体型なんて持ち合わせていないが、そのことは私が私自身を愛さない理由にはならなかった。

私が少女だった頃、
私に元気をくれたアイドルたちは不完全な自分を愛し、やりきれない思いをステージに向かって叫び散らかしていた。

2ne1は自由になれない私に向けて、私の代わりに自由になりたい想いを叫んだ。

他者を否定することなく「私が1番いけてるのよ!」と叫んだ。

でも、今の時代と私の少女時代が重なっていれば多分完璧ではなかった私は、自らの居場所を見つけられず完璧ではない自分を愛することはできなかっただろうと思う。

細ければ美しいと過激なダイエットを繰り返し、
顔にメスを入れ、
美醜に異様なほどに執着する私よりずっと若くて美しい女の子たちを見ていると「もういいよ。綺麗だよ。かわいいよ」と泣きそうになる瞬間がある。

私が愛したガールズクラッシュは減りつつある。

かつて、私が愛したガールズクラッシュとはそのままの自分を、不完全ではない自分を抱きしめて明日に立ち向かわなければいけない女たちの叫びだった。

胸を張って生きていくために自分に必死で「私はイケてるのよ!」と叫んだ言葉が私たちの明日も明るく照らした。

でも、今のガールズクラッシュと呼ばれるものの中には、「私が綺麗で美しくて、1番優れた存在」というメッセージの果てに私たちの不完全さと日常のつまらなさを押し付けてくるようなものが増え続けている。

その最前線にいた存在が、blackpinkだったというだけの話なのだと思う。

完璧な者以外を否定し、
自分たち以外の存在を否定することで、
絶対的な存在として自らを無理やり押し上げた彼女たちは、shut downという「はいやーめた。おしまい!」というメッセージだけを投げ捨てて去っていった。

また戻ってくるのかどうかは知らないけれど。

彼女たちの投げつけた暴力的なメッセージと毒物の存在に気づかないまま多くの人がそれを消化して、自分の自信と自己肯定感をすり減らしている。

その存在を本当に、アイドルの女王として良いのか。

私はそこにNOを突きつけ、立ち止まって考え直したい。

私が1番好きなkpopの楽曲、Mariaを置いてこの記事を終わらせることにする。

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