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短編小説:雨に恋い恋う -水瓶と花瓶-

 待ってたんだよ、と嬉しさが滲むのを隠しもせず言ったぼくに、彼女はゆらりと頷いた。そして、微笑んで、こぽこぽこぽという声で言った。
 きょうでおわかれ?
 寂しそうにきこえる。悲しそうにきこえる。けれど冷たく、諦めているようにも責めているようにもきこえる。彼女の心を読むのは難しくて、わかったとおもえたことはない。いつだってぼくのほうが寂しい。悲しい。
 引っ越すだけだよ、と答えたら、彼女は首を傾げるから、ちゃぷん、と水が揺れた。透明の向こう側の世界も揺れた。雨はまだ当分降り続くはずだ。
 ひっこすならおわかれだよ、という水音交じりの言葉はあまりに残酷で、思わず笑った。彼女は訝しんで、ぼくの答えを待っている。でも待って、今なにか喋ったら泣いてしまう。欠片も惜しんでくれないんだもんな。一瞬も戸惑ってくれないんだもんなあ。あなたの心が見えたことはないけれど、こんなにも一方通行だったとは。わかった、もういい、覚悟しよう。
 別れたくないからあなたも連れていってもいいかな、と早口に言ったら、彼女の中がごぼごぼと騒いだ。この花瓶にあなたを入れて連れていかせて、と噛み締めるように重ねたら、やっぱりごぼごぼと泡が湧いた。そんな彼女は、初めて、見た。
 ………いいよ。
 微かな声だった。どうして、いやだよ、と無邪気に拒まれると思った。
 この水瓶じゃなくても大丈夫かな、と訊いた声は震えた。彼女は首を横に振って、つれていってみて、と言った。僕は彼女の足元に花瓶を置いた。ぱしゃんとほどけたら、ここに入ってくれるように。向こうでも会えたらいい。また一緒に暮らしたい。ずっと一緒にいたい。
 あめがやむまでそこにいて。
 もちろん、とぼくは窓辺に座り込む。雨が止んで彼女がほどけたら連れていくために、そばにいる。お別れかもしれないから、たくさん話をする。あなたがすきだよ、報われなくても。ぼくは言わなかったけれど、彼女が言った。
 きみさえよければ、さいごにくちづけしてみたいな。




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