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雑考

 普段かんがえてるよーなことをつらつらと連ねてゆくよー

よくある懊悩のイメージ

1 自己

 自己の同一性について考えてみると、必然とテセウスの船の話に似ていると気付く。
 簡潔に言うとテセウスの船とは、すべてのパーツが入れ替わったそれは元のそれと同じものなのかというもの。大きく、「同じだ」「違う」という2つの意見に集約される。だがこれらは対立するだろうか?
 私個人の意見として、両意見は単純に視点の相違によるものではないかと思う。どちらも一面として正しい。
 物質的な見方をすれば、違う構成要素で成り立つ物は異なる物体だ。パーツが変わればそれは違うものになったということも言える。テセウスは別物になる。
 概念的な見方をすれば、同一の存在だと言えるのであればそれはそのままである。テセウスに変わりはない。
 同じ川には二度と入れぬが、川には名前が一つしかつかない。それと同じではないか?
 自己同一性についても同じである。日々どころか毎フェムト秒細胞は動き続け二度と同じ状態には戻らない。毎フェムト秒ごとに名前が変わってたら大変だ。
 自己同一性はある面で担保されよう。
 しかしまだ問題が残っている。一部分の改変は同一か。名称と物体は明確に切り離して考えるとどうか。物体は同じだが概念的に違う場合が存在するか。等々。問題は山積している。
 自己探求の旅は終わりが見えない。

2 知性

 知性とはなんだろう。何がそれに該当するのか。
 私について考えを巡らすと、知性を持っているようには思うが、知的であるかと言われると首を傾げてしまう。
 知性について考えられることが知性の要件なのだろうか。半ばトートロジーだ。意味を成さない。知性なんて存在しないのでは。(嘲笑)
 しかし宇宙に於いて特異な現象或いは存在であることは明白だ。
 知性は0と1の間を反復する異常現象であるので、安定性が失われているのにもかかわらず、知性そのものの性質によって、安定性が保持されている。崩壊は肉体死に依る。
 異常現象であるのでこれは矯正しなければならないという派閥があってもおかしくはない。全宇宙打知協会所属の宇宙人には地球人の滅却をご検討いただきたくもないことがない。
(※「打知(ダチ)」は、私の造語。知性を破壊することの意。)
 細かな話題はそこかしこに散乱しているので気が向いた時に片付けようかな。

3 時間

 絶対時間を想起する人間は数多く、しかし事実は違っていよう。時間は見かけの現象だと思う。重力みたいな?
 時間は単一のリニアな概念だろうか。複数あるように思う。空間が偏在するように、時間も各所ごとに存在する。互いに独立しながら、緩く繋がっている。と、そんな気がする。
 また、分岐もするだろうな。これはもはや悟りや祈りに近い何かだ。そう直観するだけ。これには自由意志と運命論も絡む。独自の理論なので著しく信憑性に欠ける。だが一方、説得力はあるように聞こえるものだ。
 宇宙は原初から複数あり、宇宙の流れは決まっているが、我々はどれを選ぶか選択できる。しかし一つの宇宙しか観測できない。
 ある時間の流れを追えば、それは一定のテンポで進むが、同時に2つ比較すればバラバラに進むだろう。単にポリリズムという訳にはいかない。
 あ、時間にはレイヤーがあるのではなかろうか。ゆくゆく考える。

4 感情

 色彩は主に3つのパラメータによる。所謂、RGB。彩度、明度、色味はまた別の話。音は多数のパラメータであるが、単一のシステムによる。周波数のみ。
 さて、触覚、嗅覚、味覚はどうだろう。差はあれどパラメータ自体が多すぎて特定に至っていないのではないか。まあ、受容体があるのでそのうち特定されよう。触覚については、脳の処理の部分も大きそう。
 だが感情はどうだろう。内にある感覚ではパラメータが特定出来ないのではとうっすら思う。
 仮に少数の基礎的な感情パラメータが特定できたとして、それは変わりようがないのだろうか。クオリアというのもそうだが、知性が関係していそう。
 複雑でアンニュイな感情が多く存在する。実際私が、成長の度に語彙にない感情を知覚している。嬉しさちょっと、戸惑い並、怒り多め、というに表現できなくはないが、まどろっこしい。感情の語だけで千を数えられる。
 感情という感覚の明確な表現方法を確立したい。

5 関連

 世界はたった一つの要素から成り立っている。関連である。それ一つでは存在が出来ないものがあって(仮に「原素」とする)、原素同士に繋がりがなければ何もない。原素同士に関連が生じると、そこには何かが存在する。単に存在と言っているが、現象や概念や生命なんかも包含される。
 勿論、二つの原素が関連を持っただけでは、「存在」があるだけになり(要出典)、世界など生まれない(定義によっては世界は存在するが、ここでは割愛しよう)。数えられないほどの(それこそスーパーコンピューターでも)原素が互いに関連しあうことで世界が形作られる。
 たった一つの要素と云いながら、原素と関連の二つの概念を提唱するのはどうなんだい、と問われるだろう。よっぽど柔軟な方は気付くだろうが、これら二つは同一のもので片方を定義さえすればもう片方はそれで表すことが出来る。
 少し飛躍するが、宇宙は複数存在し得ることになる。関連が大きく変われば、違う宇宙を表す。世界や宇宙や色々言ったが、自身でも考えが纏まっていない。
 無から関連が生じるのか、関連の関連といったメタ構造はあるかの議論はデザートにとっておこう。

6 言語

 言語というのは不思議なもので、誰でも使うくせに実態が良く分からない。
 言語は生命だとか道具だとか言うけども、比喩や分類ではなく、言語そのものと同じ構造のものはないのだろうか。ないんじゃなかろうか。かくして、言語は特殊である。
 方言とどう違うの?って聞かれるが、言語の別と方言の別は評価軸がずれているので比較出来ない。それほどのずれがあるかは高次元から俯瞰していただきたい。
 正直なところ、各人各様であるはずだが、近い人間同士は範囲がほぼ等しいのであまり実感されない。
 言語はウイルスだろうか。(投げやりな問い)
 天文言語学や動物言語学というのがどういった立ち位置にあるのだろう。音声や文字が言語であるというのは傲慢だ。動き、電磁波、温度、匂い、配置、間隔。何が指標かはわからない。人間に認識できるとも限らない。
 言語が思考に影響することは、少しだけなら認められる。条件に依る。自己の感覚に沿った忠実な人工言語があってもいいのではないか。

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