粟田三輝
文章いろいろあるよ
真面目に書いた解説記事や紹介記事の一覧。
ちゃんとした小説から小説っぽいものまで色々収録。
ぽつねん
現代4コマについての色々をまとめます
問1 これらの文章の意味するところは次のうちどれか。 1 コロケーションの瓦解を楽しんでいる。 2 猫についての説明文である。 3 ワードボウルの一例を示している。 4 間を埋める冗文である。 5 無意味の有意味についての論攷である。 問2 左線部のアブギダを漢字に直しなさい。 問3 筆者の主張には著しい論理の飛躍がある箇所が1つ存在する。その部分を補うためには、どういった文章を挿し込むべきか。3000字以内で書きなさい。 問4 この文章のタイトルを答
「 」のないところにけむりはたたぬ はいはいはい、どうもーーーー粟田三輝と申しますーー ええはい、そんじゃまずは自己紹介をしたいんですがね、ええ今回はなんと特別仕様になっております ね、はいまあタイトル見てもらったら分かると思うんですが、『音を奪われた自己紹介』ということでね、えーまあそういうテーマでやらせてもらいます こちらですね、いわゆるリポグラムなんですけども、皆さんご存知ですか? いやあ結構な方が知らないと思うんで改めて説明いたしますよ とらぬ「 」ぬきのかわざん
簡潔であることは美しさである。 しかし、どこまでを簡潔とするかは人による。 つまり、問題とは……?
あの、ぼく、忙しい、日々。
※この記事は途中まで無料で読めます。読めるところまで読まないと訳が分からないと思うので、是非読み通してください。 1日目 東京駅に着き、ホテルに荷物を預け、気付くと目の前にはカラフルな建物があった。その威容は写真で見て想像していたよりもまとまった印象を受けた。 ドアを開けて中に入ると作業途中の面々がいた。自己紹介もなく、私は手伝い始める。 白い壁面を様々なコマ達が埋めていく。徐々に作品展の体を成していく。 出来上がった時には、壁一面が光を放っていた。 すごく不
永続性と無限性のあわいを彷徨う我々唯一人。 理論に上書きされてしまう慄き。 乖離は埋められず、自らを詐欺るのだ。
小説家は往々にして精神疾患を抱えているが、僕は端くれでもありはしないのでただの病弱者である。 時としてそんな過負荷な状態から出力される文章が独自の美しさを纏ったりもするわけで、ここに公開しようと思い至った。 これらはなかでも、割とかなりの大いなる重篤な深刻性を表した時の表出物である。 辱め。
相手の能力が優れている場合 相手は勝手に程度を理解するので、無意味。 自分の能力が優れている場合 説明しても理解されないので、無意味。 想定される事態 これらの文章を理解出来ない者による罵倒、批判。 対処法 この文章を出さないこと。 おわり
男女の性質と大枠で括られるけどもほとんどはそんなこともない。しかし認知はより簡潔にしたがる脳みそだから、二分化する傾向にあるのかも。もっと、自然状態を観察しなければ本質は見えてこないだろうが、我々には限界がある。論理と分析こそ地球上の生物で人間が人間たる所以なのだから、忘れずに。
本が単為生殖であることはよく知られている。そして変異が大きいことも観測から分かる。虫だろうか。これを沢山集める特殊な人物もいるらしい。様々な名前がつけられている。蔵書家。読書家。本の虫。本の虫? なるほど、本は人間に寄生する生命体なのか。私は図らずも既に取り込まれ生かされている。
こんにちは
知的能力が一般のそれより優れたとして何になるか。目標は遥か遠く、未だ達成出来ず靄がかかった山頂にある。いや、山頂ではないのかもしれない。果てがない峰を登っていくのだろう。私が築いた礎は誰かの役に立つのか。自分の為になっているかさえも怪しい。妙に単純な能力が衰えているのが現実。嗚呼
論理の飛躍はかくも普遍的でそこに人間らしさがあらわれているのだなあとしみじみ。 絶え間のない激流に曝されて私は角が取れた気でいたけど周りに合わせて尖っていく自己を発見する。 どうしてこうも悩ましく感情的で何者にもなれないと鬱ぎ込んでいるのだろうか。 今日も明日も死んでいくのにね。
頭回らない時は「空気」「水分」「ブドウ糖」の3つを十分に摂ろう。 気体、液体、固体で覚えやすい! ※厳密にはちゃう
秒針が時を刻む音を、何故か深刻に捉えている。 ……なんて陳腐な表現は使えない。あまりにもありきたりだ。 そんな心持ちじゃない。 私はただ待っている。 とてもお気楽に。 予約されたレストランは瀟洒で、普段の私からは想像もつかない所だ。 相手方は何を企んでいる? カランと音がした。 照明は暗く保たれ、一定のムードを孕んだ空間だ。 革靴の足音が響く。 扉の閉まる音。 絨毯を一歩一歩確かに踏んでいく。 目の前に姿が現れる。 「お待たせ」 その
普段かんがえてるよーなことをつらつらと連ねてゆくよー 1 自己 自己の同一性について考えてみると、必然とテセウスの船の話に似ていると気付く。 簡潔に言うとテセウスの船とは、すべてのパーツが入れ替わったそれは元のそれと同じものなのかというもの。大きく、「同じだ」「違う」という2つの意見に集約される。だがこれらは対立するだろうか? 私個人の意見として、両意見は単純に視点の相違によるものではないかと思う。どちらも一面として正しい。 物質的な見方をすれば、違う構成要素で成り