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月読ちゃん!もう1万年位部屋から出てきてないわよ!

太陽が有るところに、月は有る事が出来ない。
此の世界、此の世界に有る「視点」は全て平等に意味が無い。然し、どうやら個々が此の世界を覗き込んだ時に抱く写像は皆大体等しい。だからこの世界の実在性は認められる。物質的な存在をしている物に関しては明らかに其処に有ると言える。
此の世界には、多種多様な決まり事が有る。
物理的な法則、官僚的に括られた人間社会の動静、等本当に様々な決まりが有る。何処か共通の原点を作り、其処から「プラス」と「マイナス」の観念を発明して善し悪し等主観的な観念を一般化する。
こう言うと聞こえは「人間社会」にのみ焦点を当てている様になるが、例えばロウソクやランタンの炎を熱いと感じる時、「様々な熱くない物との相対的評価により温度的にプラスベクトルに突出している」と言うよりも、「200°C位であるからして熱い」と言った方が一般的で分かりやすい。此れは温度の単位である「°C」が有るからであり、此れに主観的事実を落とし込む事によって相手側も上手く写像が出来る。

では、物質的な存在をしていないものの認識に就いてはどうだろうか。
「捻れ曲がった私が私を嘲笑っている」とか云われても、他人からすればちんぷんかんぷん。
枠組みとして「自分」の域の中、「個人」の領域の中の事に就いて実在を語るのは些か妙である。
然し、当然の如く自らは自らを或程度知覚出来る為、概念的に説明する事は可能だし、幻覚であっても其の当事者からすれば物質的な存在と実在性は何ら変わりない。個々人が其れ々れ持つ知覚実態が存在する事が出来るとなると、自他の認識的相違に依って相当に不都合が出来るので随分と面倒な事になるのだが、恐らく自己完結型の認識に就いては顕著に独自の認識体系が有る。
社会性になんにも不都合が無いので、「物質的な存在を認める」と云う事さえ出来れば、他の認識に就いては何でもいい。(宇宙人に色を伝える問題に通ずるところが有る。)

独自の認識体系に置いて不都合が起きるとすれば、
「感じ方の相違」が挙げられる。美味いところを選別して、小さな量になった料理を「美味い」と思うか「足りない」と思うか。「歯ごたえが悪い」とか「見栄えが良くない」とか言う人も居る。
人の価値観等は大体、今迄の人生の積み重ねに依るもので、それ故に人によって何処が見えるか色々違ってくる。自分がAを見てA´と思っても、隣の人が同一の感想を持つとは限らない。多様である。(此れが不便か不都合かと云われたら分からない。)

ラノベみたいな出だしでごめんなさい。落ちが思いつかなかったので此れにて終わります。
認識って、難しいね。知覚って何だろう。

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