渥美清(寅さん)にみる賢さ
映画「男はつらいよ」が大好きでした。テレビを含め何度観たことか。ワンパターンといえばワンパターンですが、でも惹かれる。その理由は、自分でもよくわかりませんでした。
いろいろあるのでしょうが、一つ気付いたことがあります。それは、寅さんの賢さに惹かれているのではとの思いです。寅さんすなわち、渥美清の賢さとも言えます。
まず、賢さとはなんでしょうか。私の考える賢さの条件として、二つをあげたいと思いかす。まず自分の経験に基づき身体から発せられる言葉を持つこと。人から聞いたことや世間の常識など、観念レベルで語るのではなく、「生きている記号」(鶴見俊輔が使った言葉です)を語ることができること。
もう一つは、かと言って自意識に囚われるのではなく、一歩も二歩も引いて常に全体観を持ってものを見ることができること。自意識に囚われないので、世界を解像度高く把握することができます。また、そこで営まれている関係性を動的に捉えることもできます。そういう人は、なんともいえない透明感を持っているような気がします。
一方で、時流に合わせた他人の言葉やキーワードで観念論を語り、そこにはその人自身の姿が見えてこない、しかしその人自身が主体となった狭い焦点で主張をする人は、賢い人ではなく、賢く見せたい人です。
この二つを、人はなんとなく峻別できるのではないでしょうか。後者には、何となく「胡散臭さ」を感じるのです。人は、その違いをなかなか言葉では説明できませんが、把握できる能力、そうしたセンサーを知らずして持っているように思えます。ちょっと楽観的かもしれませんが・・。
さて、そこで寅さんです。私自身、映画を観ていて、そうした賢さを意識したことはありませんでした。でも、山田洋次監督の書いた下の文章を読んで、それに気づかされたのです。少々長いですが、引用します。
そう、私もまさに意識しないまま、「透明な賢さ」を感じていたのです。だから、いつも大声で笑うことができた。
また、渥美さんは山田監督にストーリーやマドンナの人選について口出ししたことは一度もなかったそうです。
一歩引いて、全体観をもって撮影に臨んでいたのです。自分の役割を深く理解し、その上で映画全体がいい方向に向かうにはどうすればいいかがわかっており、そう行動する。これは、素の自分(本名の田所康雄)と俳優としての自分(渥美清)、そして役柄としての自分(寅さん)を、冷静に峻別できているからできることです。これは、そう簡単なことではありません。
山田監督はこういうエピソードを書いています。監督がシリーズ7か8作目となった頃、マンネリを感じたのか、「この辺でやめた方がいいと思うけど」と渥美さんに提案した時に、渥美さんはこう答えたそうです。
「見られている自分」と「演じている自分」、そして「本当の自分」を冷静かつ客観的に峻別して、観客が幸福を味わえるような作品を完成させる。そのために自分自身すら突き放している。真の意味で賢くないとできないことでしょう。ただ、その代償も大きかったはずです。彼は一切プライベートなことを公開しませんでした。賢さに加えて、一種のニヒリズムも感じさせます。
哲学者の谷川嘉浩は、鶴見俊輔についてこう書いています。
まるで渥美清のことを書いたように思えます。渥美清、そして寅さんに無意識に感じる透明感は、彼が人生を積み重ねてたどり着いたであろうニヒリズムも関係しているのかもしれません。そして「自分を突き動かす衝動」とは、他者を楽しませること、ただその一点だと思います。
自分はとてもそうはなれないけれど、一人でも多く渥美さんのような「賢い人」に触れることで、少しでも近づきたいと思います。そのためのセンサー、鍛えておかなければなりません。