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渥美清(寅さん)にみる賢さ

映画「男はつらいよ」が大好きでした。テレビを含め何度観たことか。ワンパターンといえばワンパターンですが、でも惹かれる。その理由は、自分でもよくわかりませんでした。

渥美清(C)共同通信社

いろいろあるのでしょうが、一つ気付いたことがあります。それは、寅さんの賢さに惹かれているのではとの思いです。寅さんすなわち、渥美清の賢さとも言えます。

まず、賢さとはなんでしょうか。私の考える賢さの条件として、二つをあげたいと思いかす。まず自分の経験に基づき身体から発せられる言葉を持つこと。人から聞いたことや世間の常識など、観念レベルで語るのではなく、「生きている記号」(鶴見俊輔が使った言葉です)を語ることができること。

もう一つは、かと言って自意識に囚われるのではなく、一歩も二歩も引いて常に全体観を持ってものを見ることができること。自意識に囚われないので、世界を解像度高く把握することができます。また、そこで営まれている関係性を動的に捉えることもできます。そういう人は、なんともいえない透明感を持っているような気がします。

一方で、時流に合わせた他人の言葉やキーワードで観念論を語り、そこにはその人自身の姿が見えてこない、しかしその人自身が主体となった狭い焦点で主張をする人は、賢い人ではなく、賢く見せたい人です。

この二つを、人はなんとなく峻別できるのではないでしょうか。後者には、何となく「胡散臭さ」を感じるのです。人は、その違いをなかなか言葉では説明できませんが、把握できる能力、そうしたセンサーを知らずして持っているように思えます。ちょっと楽観的かもしれませんが・・。

さて、そこで寅さんです。私自身、映画を観ていて、そうした賢さを意識したことはありませんでした。でも、山田洋次監督の書いた下の文章を読んで、それに気づかされたのです。少々長いですが、引用します。

渥美清さんは頭がいい人でした。話をしていると、「ああ、この人はよく分かっている、人間について、世の中について、世界について、何もかもお見通しなのだ」と思わせるような透明な賢さを感じさせる人でした。多分スクリーンを見ている観客はそれを感じていて、彼の演じる寅さんの愚行や馬鹿げたせりふを安心して大声で笑ったのでしょうね。

(出所:朝日新聞 be 2022/9/17号)

そう、私もまさに意識しないまま、「透明な賢さ」を感じていたのです。だから、いつも大声で笑うことができた。

また、渥美さんは山田監督にストーリーやマドンナの人選について口出ししたことは一度もなかったそうです。

頭のいい人だから驚くようなアイデアはいくらでもあっただろうけど、それを言ってはいけない、言わないほうが山田さんはいい仕事をするはずだ、と決め込んでいる節すらありました。

(出所:朝日新聞 be 2022/9/17号)

一歩引いて、全体観をもって撮影に臨んでいたのです。自分の役割を深く理解し、その上で映画全体がいい方向に向かうにはどうすればいいかがわかっており、そう行動する。これは、素の自分(本名の田所康雄)と俳優としての自分(渥美清)、そして役柄としての自分(寅さん)を、冷静に峻別できているからできることです。これは、そう簡単なことではありません。

山田監督はこういうエピソードを書いています。監督がシリーズ7か8作目となった頃、マンネリを感じたのか、「この辺でやめた方がいいと思うけど」と渥美さんに提案した時に、渥美さんはこう答えたそうです。

「5作目を封切った頃、私が東京駅のホームで遅い時間に電車を待っていたら、酔っぱらったサラリーマンが通りかかり、私を見てニコニコ笑いながら『いつも寅さん、見てるよ』と言った。私は『ありがとうございます』と答えたけど、その彼が去り際に、『渥美清は元気かい?』と言う。『元気ですよ』と答えたら『よろしく言ってくれよ』と言って機嫌よく行ってしまった。私は2作目、3作目とこのシリーズが評判になり出した頃は、(中略)本物の渥美清はあれほど馬鹿じゃない、新聞くらいちゃんと読んでますよと思ったりしてたけど、東京駅でそのサラリーマンに会った頃から考えが違ってきた。この役をいい加減に演じていると、田所康雄は車寅次郎に追い越されるぞという不安なようなものを感じるのです」

渥美さんはそれだけ言ってにこやかに席を立って行ったけど、それが返事だとよくわかった。

(出所:朝日新聞 be 2022/9/17号)

「見られている自分」と「演じている自分」、そして「本当の自分」を冷静かつ客観的に峻別して、観客が幸福を味わえるような作品を完成させる。そのために自分自身すら突き放している。真の意味で賢くないとできないことでしょう。ただ、その代償も大きかったはずです。彼は一切プライベートなことを公開しませんでした。賢さに加えて、一種のニヒリズムも感じさせます。

哲学者の谷川嘉浩は、鶴見俊輔についてこう書いています。

しかし、ニヒリズム(虚無主義)を経由した自己であれば、役割と自己との間にわずかな空隙を作ることができる。究極的には自分を突き動かす謎の衝動(=好み)のほかには何もなく、あらゆることが意味を疑われているために、自分(I)と自分(me)の間には空虚が横たわっている。

 (出所:「鶴見俊輔の言葉と倫理」谷川嘉浩著
人文書院刊)

まるで渥美清のことを書いたように思えます。渥美清、そして寅さんに無意識に感じる透明感は、彼が人生を積み重ねてたどり着いたであろうニヒリズムも関係しているのかもしれません。そして「自分を突き動かす衝動」とは、他者を楽しませること、ただその一点だと思います。

自分はとてもそうはなれないけれど、一人でも多く渥美さんのような「賢い人」に触れることで、少しでも近づきたいと思います。そのためのセンサー、鍛えておかなければなりません。



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