無意識に想像してしまう
「何が難しいか」と問われて、タレスが言うことには「自己を知ること」。
「何がやさしいか」と問われると、「他人に忠告すること」
(柳沼重剛編「ギリシャ・ローマ名言集」)
五月の半ば、カットしにいつも通っている美容院に行きました。入ると、受付に見慣れない若い女性が二人いました。すぐ、こちらへどうぞ、と席に通され座ります。鏡越しに、さっきの女性のひとりがこちらを見て話しかけてきました。そこで、やっと気づいたのです。マスクをしていない、いつもカットしてくれる女性だったと。
その美容院は、コロナ禍になって以前通っていた美容院が閉店してしまったため、約3年前からずっと通っている店です。だから、当初からずっと担当してくれている美容師でも、マスクなしの顔はその時に初めて見たわけです。相手方は私のマスクなしの顔を見慣れているが、私は初めて。とても不思議な感じでした。
そんなことを彼女と鏡越しに笑いながら話しているうちに、もうひとつ気づいたことがあります。そっちの方が、私にはショックでした。
それは、こういうことです。
私が最初に受付でいつもの担当美容師だと気づかなかったのは、単にこれまで見えていなかった鼻から下を、初めて見たからではない。そうではなくて、これまで私がマスクをしていない彼女の顔全体を、無意識に想像してある像ができていた。その想像していた像と、実際のマスクなしの彼女の顔が、どこかずれていた。それで本人だと気づかなかった。それだけでなく、彼女だとわかってからも、しばらく違和感がなくならなかった。受付にいたアシスタントの女性にも、全く同じ認識を持ちました。
約三年間、私は担当の彼女の顔を、無意識に想像してつくりあげていたことに、とても驚いたのです。想像と実際のどちらがどう、ということではありません。純粋にその違いにも戸惑ったのです。たぶん、こんな経験は二度とできないでしょう。でも実は、視覚では珍しい体験でしたが、考えてみれば聴覚では似たような経験をしています。
ヒトは本能的に、あるべきものがないと想像して補ってしまう生きものです。脳が勝手にそうする。
こんなことはありませんか?
カフェで一人本を読んでいる。隣には二人組が座り、盛んに談笑している。あまり気になりません。その二人組が出たあとに、一人客が座る。その客はおもむろにPCを開き、イヤホンをして話し始めた。オンライン会議を始めたよう。それなりに気を遣ってさほど大きな声ではない。さっきの二人組の方がうるさかった。でも、ついその客の声が気になってしまい、本に集中できなくなってしまった。二人組の時と何が違うのか?
二人組の会話は成立しているので違和感なく、耳はスルーします。しかし、一人でPC越しに話す人の声は、それでは成立していません。相手方の声が聞こえないからです。それは私の脳にとっては異常な状況です。だから、脳は一所懸命に相手方の会話を探して成立させようとします。あげくには、相手方の話を想像して、会話の内容を勝手に理解しようとしたりする。だから読書なんてできない。
あるべきものがないと想像して補おうとしてしまう。これが人間のサガ。でも。こういう能力が社会をつくらせてきたともいえるでしょう。
美容院での体験は、普段の思い込みや隠されていた人間のサガに気づかせてくれた、一緒のアート体験でした。次回美容院に行ったとき、どう感じるか?、それが今から楽しみです。