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The Last of Us Part IIストーリー感想~父娘の物語~

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。――中原中也『春日狂想』

ネタバレ配慮とかは一切無いためご注意ください。





The Last of Us~父ジョエルの物語~

The Last of Usでは、アポカリプスによって娘のサラを失い、止まった時間を過ごしていたジョエルの「移動」と「獲得」が描かれる。

世界はまだアポカリプスの狂乱の中にあり、隔離地域など一応の生活の場はあるが、復興し定住する場所として前向きには描かれていない。

そのような場所からジョエルもエリーを伴って移動し、人生を大きく進展させる。その移動は、「跛行」ではなくファイアフライの病院という目的地が設定された「旅」だ。陰惨な世界の中においても、停滞していた人生から旅人としての変化はジョエルにプラスに働く。その旅の様子はどことなく爽やかなロードームービー的でもある。最終的にはエリーをファイアフライから取り戻すことでサラを喪失した過去の「やり直し」を達成する。

そして娘の死を受け入れ(だからこそ写真を持つことが出来るようになるのだ)エリーという家族を獲得して話は終わる。

これは徹底して「父ジョエル」の再生の物語であるため、主題では無い「娘エリー」には一点の染みを残して終える。

The Last of Us Part II~娘エリーの物語~

The Last of Us Part IIは間違いなくエリーの物語だ。初めから終わりまで徹底してエリーの物語だ。エリーはジャクソンに「定住」し、父ジョエルを得ている状態から話は始まる。ジョエルとの関係性は、円満とは言えないが決定的な破綻でもない。父娘の距離感が流動的に移り変わる、健全とも言える関係性だろう。

しかし、まだ父が必要な年頃のエリーからジョエルは唐突に奪われる。1作目からのプレイヤー(大半はそうであるが)は大きな衝撃を受ける、そしていくらかの割合のプレイヤーは前作でジョエルが辿ってきた道に広がる血溜まりに思いを馳せる。しかし、今回の主人公はエリーであり、当然そのような理解は出来ない。エリー自身が父の死を受け止められる成熟をしていないというのもあるし、その時のジョエルとの関係性も変化の途中であり、ピリオドを打つにはあまりにも中途半端だからだ。

エリーは定住していたジャクソンを抜け出し、復讐の道程を行く。仇である人物達の情報を虱潰しに辿る跛行の放浪だ。エリーが復讐の先に求めているのは、父ジョエルの姿であり、その関係性との決着だ。理不尽にジョエルを奪ったWLFを殺していく放浪は、ジョエルとの対話でもあり喪失を受け入れるセラピーでもある。エリーは自身が振るう暴力に傷つきながらも、それがジョエルとの対話の手段でもあるため、さらに血にまみれるために歩を進めていく。

アポカリプスの「その先」にあったもの

前作ではまだ世界はアポカリプスの混乱の中であり、ジョエルの敵としてたちはだかるのは感染者や、野盗など原始的な暴力、掠奪を目的とする物が多い。主義主張のぶつかり合いから争うのは、終盤のファイアフライぐらいである。もっとも、その数少ないぶつかり合いが今作へと繋がってはいるが。

今作の世界は、アポカリプスから多少の時代が経ち、状況に適応した形で生活が取り戻されつつある世界だ。ジャクソンのある種牧歌的な雰囲気や、WLFが本拠地としているスタジアムの様子からもそれは窺える。

そして、急性期から脱した世界で人間達が繰り広げているのは、性愛、闘争、信仰であった。現代人を時に狂気に駆らせるこれらのファクターは、社会が崩壊しても蘇る。現代社会が抱えている問題ではなく、人間がある限り存在する問題であり、それは「原罪」とも言えるようなものだ。そういった意味では、このシナリオはとても保守的であると言える。

復讐の「完遂」はいつか

復讐が完遂される瞬間はいつだろうか。組織の面子のために行われる復讐、すなわちヤクザ組織でいうところの「返し」ならば、それは相手の死を持って示威するまでだろう。

しかし、今作で描かれているエリーとアビーの復讐劇は、そのような外に開かれたものではなく自身の中で決着を付けるためのものだ。エリーが復讐行のなかで、ジョエルとの精神的対話を行っていく様子はゲーム中に繰り返し描かれている。

アビーもまた、父の死に決着をつけるためにジョエルの死が必要だった場面がいくつか描かれる。しかし、エリーとの因縁の終着となるオーウェンの死との関係性はあまり描かれない(未練的な手紙がヨットにあるぐらいだろうか)これは、話の主題はあくまでエリーであり、アビーはエリーの人生のBプランであり、復讐の連鎖の歯車程度の重さでゲームに配置されているからに思える。

エリーがアビーを海中に沈め、生殺与奪を握ったまさにその瞬間、復讐が完遂される。ジョエルの思い出との精神的対話は、運命の日の前日まで進み、ジョエルの姿を思いながらエリーはアビーから手を離す。

それは、アビーへの赦しではなく、ジョエルと対話を終え再び父ジョエルをエリーが獲得したことによって、アビーがエリーの人生から退場したことを表す。

このラストが、徹頭徹尾エリーの物語であったことを何よりも表している。

エリーとジョエルが父娘となった瞬間

ゲーム終盤、エリーの復讐行は一度痛み分けとなりジャクソンへ帰還する。そこでは、ディーナとJJとの生活があり、リベラル的に好ましい先進的で、穏やかで、未来志向の家族が描かれている。

しかし、ジョエルとの対話(≓アビーへの復讐)が半ばで途絶えているエリーは、トラウマから解放されておらず悪夢に苛まれている。

ディーナはJJの父であるジェシーの死を乗り越え、ジョエルをも過去の思い出としている様子がエリーの日記から読み取れる。JJという血縁の家族を獲得し、その未来のために生きようとしている様子がある。

トミーは兄ジョエルの死への怒りを持ち続けており、マリアとの関係性が悪化してもその怒りを忘れるという選択は取れない。血縁を略奪されたことの怒りは未だ燃えさかり続けている。そして、アビーの居所を突き止め、エリーに選択させるために来訪する。

 エリーはディーナとトミー、どちらの人生に乗るかの選択が必要となる。パートナーであるディーナと血縁のない息子であるJJを獲得したエリーは、血縁の怒りに燃えたトミーが提示した養父ジョエルの復讐を完遂するか求められるという場面である。

 最終的にエリーは復讐を選択する。「未来」と「血」の選択で、エリーが「血」を選択した瞬間であり、ジョエルとエリーが肉親の情を持ち合う「父娘」であると表現された瞬間がこの選択ではないだろうか。

 The Last of Us Part IIは、エリーがジョエルとの対話のための復讐の旅路を行き、ジョエルとの「血」の繋がりを持つ選択をし、そして対話と復讐を完遂し、ジョエルとの父娘としての関係性を確定させ死を受け止める準備を終える。そのような物語なのだ。





蛇足: The Last of Us Part IIはフェミニストのための物語か?

ここから先はインターネットのゴシップについて話す完全な蛇足であるが、今作がフェミニストの介入によって過剰にそちらよりのシナリオにされてしまったとの話がネット上で散見される。

内情について噂で予測し合うのも不毛だと思うが、そもそもとしてこのシナリオはフェミニスト的な好ましさをに合致したものだろうか。

確かに、表面的な要素としてプレイアブルな主人公は女性であるし、エリーは同性愛者として描かれ、アビーも男性に匹敵する屈強な姿が描かれている。

そういった表面的な部分は確かにリベラル的に好ましい要素を持っているし、現代のゲーム作りにおいてそういった要素を持たせることが、どこかしらの意志から求められていることはわかる。

しかし、ストーリーの根幹として私が読み取ったのは、人間の原罪といった保守的な観点や、エリーが父ジョエルとの「血」の交わりを求め、暴力に傷つきながらも血に濡れ、父との対話の終結と関係性の完成を目指す。そんな父への渇望と愛に満ちた、ある種父系的なテーマだ。

ネットの一部の批判通りの内情があるとしたら、あまりにも捻れた作品では無いだろうか。

もっとも、フェミニストのクリエイターが干渉し、好ましいゲームを作ろうとして完成したのがこのシナリオであるとしたら、それはそれでクリエイター自身ですら創作物を表面的な思想で変質させることはできないという、創作の業のようなものを感じさせる話であるわけで、それもまた愛おしい話だ。









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