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スナック社会科vol.8「『なぜガザなのか』なのかを早尾貴紀さんに聞く」に向けて①

いよいよ、あと10日。

徐京植さんのこと

 日本という場所からパレスチナについて話すとき、また早尾貴紀さんとパレスチナについて話すときに、徐京植さんのことは外せないな、というのは以前にも書いたのですが、今回は徐さんの本を読んで思ったことなどを書いていこうと思います。まずはプロフィールから。

徐京植(ソ・キョンシク、1951~2023)

1951年2月18日、京都市生まれ。1974年3月、早稲田大学第一文学部仏文科卒。在学中の1971年、兄の徐勝・徐俊植が韓国留学中に逮捕。以後、2人が釈放される1990年まで救援運動に奔走。1980年代から作家活動。主要著作、『私の西洋美術巡礼』(1991年)、『子どもの涙:ある在日朝鮮人の読書遍歴』(1995年、日本エッセイストクラブ賞)、『分断を生きる:「在日」を超えて』(1997年)、『プリーモ・レーヴィへの旅』(1999年、マルコポーロ賞)、『断絶の世紀 証言の時代:戦争の記憶をめぐる対話』(高橋哲哉氏と共著、2000年)、『半難民の位置から:戦後責任論争と在日朝鮮人』(2002年)、『ディアスポラ紀行:追放された者のまなざし』(2005年)、『植民地主義の暴力:「ことばの檻」から』(2010年)、『フクシマを歩いて:ディアスポラの眼から』(2012年)、『越境画廊:私の朝鮮美術巡礼』(2015年)ほか多数。2000年4月より、東京経済大学教員(現代法学部/全学共通教育センター)。全学共通教育センター長、図書館長を歴任。2021年3月定年退職、名誉教授。2023年12月18日、永眠。

東京経済大学ホームページ「徐京植さんを偲ぶ会」より
https://www.tku.ac.jp/event/2024/2024-0402-021.html
最終閲覧2024/09/18

 在日朝鮮人二世※の徐京植さんはご自身を『ディアスポラ(離散民)』のようだと言います。そして、そのディアスポラの視点を持って、マジョリティだけのものではない新たな普遍性を求め、思索し、文章をもって表現し続けて来た方だと思います。
 そんな徐さんの来し方は、連載をされていたハンギョレ新聞のお悔やみの記事に纏められています。

 また、この記事の中でも引かれている連載最終回にあった言葉も、無力感や絶望的なことに事欠かない毎日に何度も復唱したい言葉です。

 最後に、エドワード・サイードの言葉を思い出しておきたい。(なぜ1967年以降、政治的実践の方向に進んだのか、という問いに対して)「パレスチナ闘争が正義について問いかけるものだったからです。それは、ほとんど勝算がないにもかかわらず真実を語り続けようとする意志の問題でした。」(『ペンと剣』)

 私たちも、勝算があろうとなかろうと「真実」を語り続けなければならない。厳しい時代が刻々と迫っている。だが、勇気を失わず、顔を上げて、「真実」を語り続けよう。サイードだけではない。世界の隅々に、浅薄さや卑俗さと無縁の、真実を語り続ける人々が存在する。その人々こそが私たちの友である。

ハンギョレ新聞[徐京植コラム]真実を語り続けよう ― 連載を終えるにあたって
2023/07/07掲載、最終閲覧2024/09/18
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/47238.html

 また、徐京植さんは「新しい普遍性を求めること」「想像力が試されていること」を何度も何度も強く読むものに問いかけます。まるでこうなることなどお見通しだったかのようです。

 ジェノサイドを扱った文学作品のうち、明らかに点数が多いのは「ホロコースト」関連のもにであろう。(略)併せて考えておかなければならないことは「ホロコースト」がヨーロッパ社会の「内なる他者」である「ユダヤ人」を主たる標的とする事件であったという点だ。そのため、被害者の多数は教育水準が高く、ヨーロッパ諸言語を読み書きすることのできる人びとであった。(略)
 これに対して、非ヨーロッパ圏で起きた「外なる他者」へのジェノサイド、とりわけアフリカや南北アメリカの先住民を標的としたそれについては文学作品の数は多くない。それは被害者の多くが事件を表象する基礎的条件すら奪われた存在であるだけでなく、たとえ表象することができたとしても言語、アカデミズム、出版市場などの諸制度や、「外なる他者」に対する無関心や自己中心主義が障壁となって作品としての現出を阻んでいるからである。(略)
 この点に関して想起されるべきは、エドワード・サイードの次の言葉である。

 『知識人がすべきことは危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験と結びつけることである。(中略)これは特定の苦難の歴史的特殊性を捨象することとは違う。そうではなくて、ある場所で学ばれた教訓が、別の場所や時代において忘れられたり無視されたりするのを食い止めるということである。』(エドワード・サイード『知識人とは何か』平凡社、1998年)

つまり「ホロコースト」の経験を「ユダヤ人の経験」として占有するのではなく、パレスチナ人などの「他の苦難」と結びつけて想像することができるかどうかが問われているのである。「自己の苦難」を徹底して見つめることが「他者の苦難」への想像へと開かれてゆくかどうか、まさしくこの点こそが、その作品が「世界文学」としての普遍性を持つことができるかどうかの分岐点であろう。

『徐京植評論集Ⅱ 詩の力』(高文研)2014年 より

 上記引用した『徐京植評論集Ⅱ 詩の力』、Ⅴ章「証言不可能性」の現在ーにおいて、「ジェノサイド文学」について語られているのですが、ホロコーストサバイバーのプリーモ・レーヴィがアウシュビッツと広島を繋げた詩(冒頭キャプションの写真に一部掲載)に、3/11を経た徐京植さんがフクシマ※を予見していたようだと書いていましたが、いま同じような気持ちを徐京植さんの文章に感じています。また『夜と霧』のフランクルとレーヴィを比較し、以下のように論じています。長いけど引用(自死についての言及があるので注意)。

 フランクルとレーヴィの間にあるのは比喩的に言うならば、過酷な現実をいかに生き延びるかという「臨床的」な次元と、その現実の原因を究明しようとする「病理学的」な次元との差異であるといえよう。この二つの次元は本来、相互に排除し対立するものではないはずだが、往々にして混同され、同一平面上でぶつけ合わされることになる。そして、「理解できないことを理解しようと無益な努力をするよりも、与えられた運命の中でいかに生き延びるかが重要だ」という、いわば思考停止のメッセージへと歪曲され、「感動的」に消費される。このような受容は、出来事そのものの原因を究明し、再発を防ぐことには役立たない。
 かくして、出来事そのものを深く省察する困難な役割は、逆説的であり、不当なことですらあるが、被害者の肩に負わされるのである。プリモ・レーヴィはそうした重荷を担った証言者であった。
 プリモ・レーヴィはその生涯において計14点の文学作品を発表した。最後のエッセー集『溺れるものと救われるもの』の「結論」において、著者はこう述べている。

『私たちは耳を傾けてもらわねばならない。個人的な経験の枠を超えて、私たちは総体として、ある根本的で、予期できなかった出来事の証人なのである。まさに予期できなかったから、根本的なのである。(中略)これは一度起きた出来事であるから、また起こる可能性がある。これが私たちの言いたいことの核心である。』(プリモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』朝日新聞社、2000年)

 四十年間にわたる証言ののち、著者の不安と絶望は静まるどころか、ますます高まっていることがわかる。この文章を書いた翌年、プリモ・レーヴィは自殺した。彼は自殺によって、底の見えない深い穴のような未完の問いを、私たちに差し出したのだともいえる。

出展、同

 "そして、「理解できないことを理解しようと無益な努力をするよりも、与えられた運命の中でいかに生き延びるかが重要だ」という、いわば思考停止のメッセージへと歪曲され、「感動的」に消費される。このような受容は、出来事そのものの原因を究明し、再発を防ぐことには役立たない。"(上記より引用)
 他者の苦難も「泣けるイイ話」として一瞬消費されるだけの、もしくは他者の苦難に比して「それに比べたら恵まれている日常に感謝」的な自分本意な浅い受容に溢れた今日的な問題ともいえますよね。先に引いたサイードの言葉とも併せて、「再発を防ぐために」この言葉を受け取った自分がどうあるかということが突きつけられます。

 想像力には限界がある。当事者のことを他人が表象することは出来ない。けれどもそこに橋を渡していくためにはやはりインターセクショナリティが重要だな、とその言葉は使われていないけれども、徐さんの本を読んでいても思います。インターセクショナリティとひとくちに言っても、その交わす線も交差する点も各々で違ってくるので、遠回りに思えても自分の井戸を掘って掘って、掘りまくって見出したもの(または見ないようにしていたもの)に向き合って、それを手に持って交わせて見てみるということが必要なのかなと思っています。

 先日頂いてから、「徐京植評論集Ⅱ 詩の力」を他の本を読むあいまに何度も読み返しているのですが、読むたびに気付かされることばかりです。例えば、特権性のある人が自分の持っている特権を知ることやその特権性に向き合うことはなかなか難しいものですが、徐さんは母親が息子(徐さんにとっては兄たち)が政治犯になったことをきっかけに今まで縁のなかった弁護士や新聞記者、運動家や学者など外部の人達との関係ができて行くなかで、学のなかった母親※が言葉を得て語りを豊かにしていく過程を見て、学のある自分は学のない母親を自分の解釈に閉じ込めていたことに気付いていきます。そして、気付いたとてもそれが全てを分かることにもならないとも思い知ります。

 それはとても辛いものでもあると思うのですが、自分の井戸を掘って見出していくというのはこういうことなのではないかなと思いました。また辛いものであると思うのですが、その辛さの果てに徐さんが亡き母と出会い直せたように、再会も新しい出会いも運んでくるのではないかと思うし、そこに豊かさも感じます。

 いまパレスチナで起きている非人間化によるジェノサイドの正当化。その非人間化してしまう心持ちというのは、他者を理解する面倒くささ(自分と相手が同じ人間であるということを認めたくない)からの逃避という側面もあるのではないかと思います。

 この日本にも人間を非人間化する芽はいたるところにあります。日本の入管に確たる根拠もなく自由を奪われ長く留め置かれている人、また入管から出られても「仮放免」という立場で職にも就けず、移動の自由もままならない人、見た目で犯罪予備軍と判断され職質を度々受ける人、まともな契約もないような劣悪な労働条件で働かされる人、病や障害のために社会から疎外される人、もっと身近な例で言うと会社などで「使える」「使えない」と、人を物のように表現することが当たり前に溢れていること…
 こう書き出してみると、非人間化によるジェノサイドの正当化は、差別や人の序列化を正当化することが非人間化に繋がることなのだと気付きます。これは関東大震災のあとの虐殺にも繋がることだと思います。

 であるならば、今起きているジェノサイドを止めること、過去に起きたジェノサイドに学びまた起こさないようにすることは繋がっている。繋げられる。そう思えば、彼の地にいなくても出来ることはたくさんある気がしてきます。そのために、色々とやりながらも、またはやれなくてもまず自分の井戸を掘る。そのしんどい工程に厳しく向き合った徐京植さんや先人たちの遺したものは暗い坑道の先を示す灯りにも見えます。

 次回のスナック社会科当日は、その徐京植さんとの出会いや早尾貴紀さんが徐さんにぶん殴られた(比喩)エピソードなども聞き込んでいきたいと思います。

 話は飛びますが、9/20(金)に9/1から延期になった都庁前集会があります。たくさんの人がそれぞれの想いを持ち寄って集まって欲しいと思いますが、そちらに向けて盛り上げるべく、先月開催した【スナック社会科横浜映画祭#2 特集:飯山由貴】を再配信しています。

  映画祭のアフタートークで今年の都庁前集会のテーマを「朝鮮人虐殺とパレスチナ」と並べたことへの飯山さんの想いを語る場面がありますが、このふたつだけに絞るというよりは、このふたつを並べることで自分につながってくるもの、想起するものが各々で出てくるものだと思いました。作品とともにとても大事なお話を聞かせていただきました。次回の早尾さんとのお話したいこととも繋がれていくものがありました。
 来週の月曜まで繰り返し視聴できますのでお小遣いにゆとりのある方は是非。

 次は、ここのところ、色々と読んだ本の紹介が出来たらと思います。長くなりましたが、とりあえず以上。

※在日朝鮮人2世:在日コリアン、在日韓国人、表記は色々とありますが、ここでは徐京植さんが自称されている表記をそのまま使用しました。そもそも日本人がその表記や自認を定義できるものではないので、基本的に「その人の言うその人(表記、自認)」を尊重すべきだろうと思います。

※フクシマ表記について:「フクシマ」とカタカナで表記するのは、福島県という特定の地名を超えて、そこで起きた原発事故とそれをめぐる一連の事態を包括的に示すためである(上記、同書引用)

※学のなかった母親:一世の方々(特に女性)は自国にいる時も、日本に来てからも教育から疎外されることが多かったという歴史があります。言語、文化、教育を取り上げてきたのは学齢期の子どももの大半が働かざるを得なかった日本の植民地政策によるところが大いにあります。



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サトマキ
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