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スナック社会科vol.8「『なぜガザなのか』なのかを早尾貴紀さんに聞く」に向けて②
いよいよ今週末!
おかげさまで会場は満席となりました。2週間のアーカイブ付き配信チケットは無制限ですので、どうぞ宜しくお願い致します。
(学割・困窮割もご活用ください!)
ご参加される方は早尾貴紀さんへの質問、既に本書を読まれた方はご感想など、事前アンケートに是非お寄せください!
また、今週はイスラエルのレバノン侵攻(と言っていいでしょう)で始まり背水の陣のネタニヤフの自衛のために何百人も毎日死ぬような状態になっていること、西側諸国が介入しやすいレバノンに注目が集まることで、パレスチナが更に捨て置かれる可能性などを考えると暗澹としてきます。が、今はまだ銃弾が飛んでこない場所にいる私(たち)には出来ることや考えることがまだまだあると思います。話し続けましょう。
徐京植さんのこと②
そして、当日までぽつぽつ書いていくnoteを更新したいと思うも、あれからずっと徐京植さんの本を読み始めたら止まらず読み続けています。「こんなことを何十年も前に言っていたのか!」の連続殴打を受けています。しかし、何十年も前の私は出会っても出会えなかったとも思います。悔しい。
『なぜガザなのか』を読まれた方は、『ホロコーストからガザへ』を既に読んでいる方も多いと思いますが、『ホロコーストからガザへ』後半の徐京植さんのサラ・ロイさんへの応答と対談は、サラ・ロイさんの人となりや、ご自身に交差する様々な線とそれが徐京植さんとも交差する点がお二人から語られることで、民族的にはこの日本でマジョリティである自分からは見えなかったものが立ち上がってきます。
これを踏まえて、『なぜガザなのか』を読むと、この本だけでも充分読み応えはあるのですが、「なぜガザなのか?」をたくさんの情報と数字、小さな声の数々からサラ・ロイさんが淡々と冷徹なまでに組み上げていく力の源というか、背骨の部分を感じます。
そして、徐京植さんから語られる日本でディアスポラとしての在日朝鮮人というご自身、その徐京植さんから見た日本社会、これを自分の立ち位置から辿っていくことで距離的には遠いパレスチナのことをも返って近付いていけるような気がします。
先ほど「難民的自己認識」ということでパレスチナと自分たち朝鮮民族の話をしましたけれど、いわば第二次世界大戦までの植民地支配・帝国主義・世界戦争という秩序の後、恣意的な線引きを世界各地でいろんな覇権国家がやった。そのような線が引かれたことによって、クレイフィのような、あるいは私のような、あるいはカナファーニーのような、ダルウィーシュのような難民が全世界に生み出された。日本自身も私たちのような、自分たちがつくり出した難民を抱えているのです。
「難民問題を解決する」、「難民問題の解決のために」という言葉がごく気軽に語られます。しかしこれは恐ろしい言葉ですね、「問題の解決」ということは。私は「ユダヤ人問題の最終解決」というナチスの言葉を想起します。「こういう目障りな存在がいなくなってくれればいいのに」ということにそれは転化しかねません。(略)あるいはアフガン難民の問題について日本がイニシアチブを取って国威を発揚する、旗を見せる、というような発想がされていますね。しかし日本では、報道でご存知でしょうけれど、わずか九人のアフガニスタンの難民を認定せず、そのうちの四人か五人を不法滞在だということで収容しているのです。つまりそれは、日本の中の排他的な意識と「難民救済」という美辞麗句を結びつけうるということです。「うちのこぎれいな庭に入ってくれなければ助けてあげるよ」っていうことなのですよね。ところが在日朝鮮人はその「こぎれいな庭」にもともと、前から存在している難民なのです。だからこの今日の状況は私にとって、非常に不安をかきたててやまない状況です。
Ⅲ 仙台での対話2 朝鮮とパレスチナーあるいは日本とイスラエル より
これは、2002年2月に仙台で行われた対話集会のときのもの、2001年にアメリカでの同時多発テロとその後のアメリカのアフガニスタン侵攻の翌年、と思うと当時の日本のイニシアチブやアフガニスタン難民が発生したことも思い出されます。そして、この2002年9月17日に小泉純一郎首相(当時)の電撃訪朝と日朝首脳会談がありました。
昨年の《9.11》(2001年9月11日の米国ニューヨークとワシントンDCにおける自爆攻撃事件)以後、私たちは、自らの意見表明に先立って「もちろん私自身はテロには反対だが」とか、「私はけっしてテロリストを擁護するものではないが」といった自己弁明的な枕詞をつけることを強いる圧力にさらされている。自説に耳を傾けてもらいたいと望む者は誰でも、自説を展開するに先立ってこの「踏絵」を踏んでみせなければならない。しかし、それをしたからとて、実際には「耳を傾けてもらう」ことはできないのだ。何かを言う前にまず、白か黒か、敵か味方か、「文明」か「野蛮」か、を明らかにせよ─この単純きわまるブッシュ流の二分論が国家にも個人にも有無を言わさず押し付けられている状況下では、問題とされるのは「踏絵」を踏んだかどうかという一点だけであって、その後に続く議論は重要ではないのである。「踏絵」を踏まない者は「テロリスト」またはそのシンパと分類されて非難を浴びるか、あるいは発言を括弧にくくられて黙殺されてしまう。他方、「踏絵」を踏んだ者は、「テロ」に反対する側、すなわち「対テロ戦争」に反対しない側という分類項目に一括して投げ入れられてしまい、当人の意向とは関係なく「対テロ戦争」を利する役割を演じさせられてしまう。この単純化と二分化の暴力的メカニズムは、それ自体が「対テロ戦争」の主要な構成要素をなしている。
《9.17》以降の日本社会において、「拉致」という言葉が、上記と同じ「踏絵」の機能を果たしている。この「踏絵」を私は拒否する。しかし、沈黙していては私なりの責任を果たすこともできない。そこで私は、ここに述べたアポリア(困難な矛盾・難問)を抱えたまま、現時点における自らの考えを記述してみることにした。
Ⅰ 秤にかけてはならない─日本人と朝鮮人へのメッセージ より
(初出:『現代思想』2002年11月臨時増刊号「日朝関係」青土社)
この「枕詞」と「踏絵」、当時溢れてた!と思い出すし、安倍晋三氏銃撃事件の時も、このパレスチナで起きているジェノサイドに関しても、もう当然のようにテンプレ化してますよね。そしてこのあと本書では続けて、(A)植民地時代を乗り越えるということ─日本人へのメッセージと、(B)継続する反植民地闘争のために─朝鮮人へのメッセージというふたつの文章が上下二段に平行して綴られていきます。長いので引用しませんが、これは今読んでも、というか今だからこそ立ち戻らなければならない地点でもあり、他国の植民地主義による被害を語るためには、自国の植民地主義による加害を直視しなければならないし、それを「植民地時代を乗り越えるということ」と題してくれていることに、むっちゃ厳しく絶望するなかでもまだその先を期待している徐京植さんの人間への信頼というか愛情を感じます。
これが二十年以上前。当時、応答はあったのだろうか、と考えてしまう、これにちゃんと応答出来て呼応し合うような土壌が出来ていたら今のこの状況はないと思うので、当時とっくに大人であった自分も恥じ入るばかりです。どれだけ絶望させてしまったのだろうか。
そして、日朝首脳会談はパンチのある報道が続き絵面では覚えているのですが、そこで何が話し合われたか、日朝平壌宣言(本書に全文引用されています。)には何が書かれていたのか、今さらに知ってもう走って逃げたいくらいなのですが、もう、もう、これ「オスロ合意」(1993)と同じくらい骨抜きじゃん…という感じ(そしてオスロ合意も当時の自分は「善きこと」だと思っていた)。
(講演会での「歴史の認識が大切だということでしたが、学校で学生たちにどのように話しかけ、接していらっしゃいますか」という質問に答えて)
(前略)けれども大事だと思うことをふたつほど申し上げますと、ひとつはノスタルジアは抵抗の武器だということです。これは私のパレスチナ人の知人ミシェル・クレイフィという映画監督※の言葉です。(略)日本ではいつの頃からか─おそらく高度成長の頃からだと思いますが─もうそれは過去のことだ、今はそんなことを言っている時代じゃないよとか、世の中の流れに乗り遅れるとか、世の中の流れはこうなっているよ、今はグローバリズムが流れなんだとか、そういう言説、ものの言いようが驚くほどの力を持つようになり、思い出すという作業が不当にないがしろにされているのですね。(略)
それから歴史を教えるときのもうひとつのことは、英語で言うとマスターナラティブとカウンターナラティブということです。多くの歴史は国家とか多数派とか企業とか権力とか、そういった側の人々の現在を正当化するために記述されます。歴史というものは中立にあるのではないのです。歴史を記述する人たちが誰かと考えれば、それは男であり、大学の教授とか研究者ですね。恵まれた人々で国家から庇護された人々が書く。だからその人たちが故意であるかないかは別にして、大きく見ればそれはすべて現在の権力や多数派を正当化するために書かれるのです。しかし、それはマスターナラティブ、支配者の歴史です。カウンターナラティブというのは、その中で無視されてきた少数派、踏みにじられてきた、差別されてきた、打ち負かされてきた者の語りのことです。その語りを聴く。これが歴史を語るときの私が留意している二つのことです。
もう一度言うと、ノスタルジアは抵抗の武器だということと、マスターナラティブに安住してはならない、カウンターナラティブを語れ、この二つですね。
Ⅰ 日朝の「断絶」は超えられるか より
これもすごい耳が痛いけれども、80〜90年代くらいの空気を思い出すと実感が湧いてきます。バカなヤングはとってもアクティブ※の時代ですね。これは60〜70年代の「政治の時代」とその敗北とその政治の時代を生きたアクターたちの転向も影響しているような気もしますが、よく言われる「失われた30年(40年)」というのは、ひたすら忘却に努めてきた期間だったのかもしれません。しかし、徐京植さんの言うように、歴史はマスターナラティブだけで成り立っているのではないし、人間はそんなに押し付けられた物語(マスターナラティブや権力者側が作る神話)に自分を同化できるほど(口ではどう言っていても)単純な生き物ではないと思うし、人ひとりが生きる歴史にも複雑さが誰にもあると思います。忘却に努めてきたけど簡単に忘れることはできないカウンターナラティブがどこの土地にも、人にもあって、それを蔑ろにしてきた歪みや限界が出て来ているのではないのかなという気がします(本当はもっと前に出てきた気がするのだけど、2011以降、それは目に見える形で「ないこと」にしてきた気もします)。
それをいま、スナック社会科にお呼びした方々では飯山由貴さんや山本浩貴さんJaewon Kimさんたち、私の下の世代のアーティストや研究者、書き手の方々が「忘却に抗うこと」「カウンターナラティブに耳を傾けること」をテーマにされているのは必然でもあり、また彼女、彼らの話を聞くとそれぞれに応答責任を感じていることが心強くもあり、恥ずかしくもあります。見渡す限り先生ばかり。「えー!私が30年かけたとこまでもう登ってきちゃったの!凄えー!」って感じ。腹をくくって今からでも素直に教えを請おうと思います。
冒頭に書いたとおり、きっとその当時に徐京植さんに出会えたとしても出会えなかったと思うのです。当時の私のままでは。
さて、書いているうちにもう明後日に迫ってきて、こんなに遠回りしていて大丈夫?と思いますが、ご参加される方もそれぞれのたどり着き方で今回のスナック社会科にご参加されるのだと思いますので、まあどうにかなるだろうと。それぞれの道中の景色を大切にしましょうね。今回激しく引用した徐京植さんの書籍はこちら、在庫もあるようなので是非に。
※パレスチナ人の知人ミシェル・クレイフィという映画監督
ミシェル・クレイフィの作品「ルート181」が下記イベントにて上映されます。アフタートークは早尾貴紀さんですのでこちらも是非!
※バカなヤングはとってもアクティブ
電気グルーヴ『N.O.』より
(注釈つけるほどかと思いましたが笑、空気感が伝わるかと)
長くなりましたが、では!
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