ヨウ素(Iod.)とタイムラプス①
さて、なぜか、ミネラルシリーズの第一回として、ヨウ素を選んでしまった。
キネシスからエネルゲイアへ、の本体というか総論の方では、果実を貪ることのメリットデメリットについて書いている。つまり、果実を手にしたことで、わたしたちは何を失っているのか、という話である。
そもそも、ストーリーの過程を奪うことあるいは明け渡すことが
なぜいけないのか?
この問いには、少し斜め上からの視点が必要になってくる。
話がいろいろと胡散臭くなるので、あまり持ち出したくないキーワードのひとつに「愛」がある。だが、とても慎重に取り扱うことができれば、愛も、怪しい感情論ではなく、科学的な構造論として取り扱えるはずだ、と私は思っている。
アドラーや、エーリッヒ・フロム的な世界観は、そのひとつの態様だろう。
フロムの話の中でとくに私が重要視しているのは、チームワークは愛じゃない、という話である。
このことにぴんとくる人は、力の神と、根源的な自然の神の峻別が理解できる人だろう。
チームワークは、力を手に入れる助けになるが、それは愛とは違うのである。愛は起点から終点まですべてを責任をもって取り扱うこと。だから、チームワークの観点からは互いに助け合うことは必須な行為である故に、愛の世界からは、時に手出しをしない、ということも必要になってくる。
ストーリーを味わうことを部分的に取り上げられ、遮断されてしまうと、人は物語全体を味わうことが不可能になるからだ。
この意味からも、高タンパクなもの、とくに動物がつくりだしたタンパクを食べること=彼等が自分の生き方に適した状態に身体を整えたものを、人間であるわたしたちが勝手に横取りすることは、彼らの物語を部分的に、わたしたちの物語に接ぎ木するようなものなのだ。
つまり、わたしたちは人間なのに、牛らしく、鶏らしく、豚らしく、マグロらしく、鮭らしく、なってしまうということ、、
千と千尋の神隠しで、お父さんとお母さんが美味しい肉料理を貪っている間に、いつのまにか豚になっているシーンがあったが、あれはデフォルメされているとはいえ、霊的な観点からとらえると、決してフィクションではないのだ。
わたしたちは、そうやって憑依されるリスクを冒しながらも、手にするメリットが大きい故に、文化として広く肉食を実践している。
そのメリットはまさに、時間の短縮である。
スタミナがつく、というのはそういうこと、、
しかし、その裏面として、高たんぱく食をやりすぎると、老化が速いというのは、うすうす気づいているポイントだと思う。
もう完成している物語を手に入れることは、時間軸的に考えて、すでにしっかり酸化が進んでいるものを取り入れれば無理もないのだけれど。
人間というものは勝手なもので、物語の熟成=熟れた果実 を望むくせに、酸化し、老化する、ということは嫌悪するわけだ。
肉食文化の強い西洋カルチャーは、東洋人よりも、若さを失う事への恐怖が文化的に強い。アメリカのドラマなどをみていると、このあたりのテーマが良く描かれている。
この、時間が相応にかかったものに価値を感じるということと、若い未熟であること、新鮮であることに価値を感じるということの矛盾について、引き続き考察していきたい。
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