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一神教ではなく、二神教じゃないの?①

禁断の果実が、たんぱく質のことであり、高たんぱく食にあやかることのメリットデメリットが、そのまま現代の悲喜こもごもそのものではないか、と考えると辻褄が合う事ばかりになる。

そして、皮肉なことに、キリスト教圏は、肉食文化がほとんどであり、菜食文化はどちらかというと、仏教圏なのである。


なので、日本人にとってキリスト教の世界の苦しみが他人事、というのは一理あったように思う。
しかし、明治以降、福沢諭吉が牛肉を積極的に広め、日本人のほとんどが、西洋人と同等あるいは、彼らよりもひどい高たんぱく食を日常的に実践する民族になってしまった。

このことと、西洋医療にお世話にならねばどうしようもない、という文化の変化は、切っても切れない。

たいていの病は、高たんぱく食をやめることができれば解決できる。やれっ添加物だ、農薬だ、重金属や、小麦が悪いだとか、定期的にいろいろな毒素が取りざたされるが、これらは基本的に枝葉末節の話題だとわたしは思っている。

つまり、高たんぱく食生活をやめないまま、健康でいるにはどうしたらいいのか、というかなりわがままな望みを叶えたい人が多い故、医療は混迷を極めてしまうのだ。

ではなぜ、高たんぱく食、しかも、異種たんぱく質を摂取することがよろしくないのか?

生臭坊主、という言葉があるが、基本的に宗教の修行者は菜食なことが多い。肉をたくさん食べる修行者、というのは聞いたことがない。
だが、それはただ、意味不明なカルトの戒律だから、という風に思考停止して理解していないだろうか。

わたしはそこに込められている、自然科学的な要素に注目している。
このたんぱくという果実を積極的に利用しようとする派と、なるべく、この果実にあやからないようにする派、2つが世界には存在している。

この前者が、キネシス的なカルチャーであり、力の神の崇拝である。
日本には、八百万の神がいるとされ、神は1人なんかじゃない、星の数だけいるんだ、とよく反論されるが、その効能をざっくり分類してみると、基本的にこの力の神のバリエーションのひとつ、であることが多い。

そういう意味で、神的なエネルギーをざっくり分けるとするならば、
力の神と、力を超えたエネルギーを孕んだ存在、の2種類になる。

そしてまさに、キリスト教の聖書の中では、この2つがかなり混線しており、登場する神の種類が時々入れ替わっているのではないか、とわたしは睨んでいる。
つまり、神は1人ではなく、2人いるやろ、という話だ。
ハラッサー的な力の神と、親切に現世利益を手取り足取り指南してはくれないが、本来の宇宙の法則をつかさどる方の、根源的な神。

この視点を持ちながら、聖書を読み解くと、いろいろ氷解する。
このことは、力の神の有用性とその限界を紐解くことと同義になってくる。
そう、力の神は万能ではない。

Image by Pexels from Pixabay
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