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NPB 天国へ旅立った選手2023

どうも、今年もお疲れ様でした。
今回は天国へ旅立った元NPB選手を紹介します。
内容が薄い上に文章が長くて申し訳ありません。
※サムネは楽天モバイルパーク(2023.4.29撮影)

1月

24日【不惑の大砲】門田博光

3度の本塁打王と2度の打点王に輝いた左のスラッガーも晩年は単身で隠居していたが、医師が「門田さんが透析に来ない」と心配して自宅に駆けつけたところ、既に亡くなっていたことが判明。
通算567本塁打を放ったレジェンドとしては寂しい最期だった。

2月

10日【熱く破天荒な兄】入来智

闘志溢れる投球スタイルや兄弟リレー等から“記録より記憶に残る投手”だったが、弟・祐作さん(当時はオリックスのコーチ)のインスタに載ってからわずか10日後に交通事故で急逝。
宮崎のローカル局で報じられた死亡事故が事実上の第一報だったが、当初は都城市在住の一般人として扱われたためかファンに衝撃が走った。
また、引退して以降は10回以上も転職しており、第一報をきっかけに介護職員になっていたことも判明している。
参照投稿↓

3月

12日【盗塁王チコ】ロベルト・バルボン

キューバから来日し、阪急ブレーブスでは3度の盗塁王を獲得するも、選手時代にキューバ革命が起こったことがきっかけで引退後もほぼ帰国できず、亡くなるまで日本に永住していた。
また、阪急→オリックスの「アバウトすぎる通訳」としても人気が高かった。

13日【史上最悪の助っ人】ジョー・ペピトーン

選手時代には仮病を使ったり、他の助っ人に自分の支払いを押し付けたりするなど、人間として史上最悪な助っ人だった。
さらに晩年までトラブルが多く、訃報を知った人の中には「彼のご冥福をお祈りしません」と投稿する野球ファンもいたほど。
また、ヤクルト球団はこの時の反省を活かし、性格も重視して助っ人を獲得している模様。

4月

23日【中日の助っ人スラッガー】ジョン・ミラー

中日では3年連続で20本塁打以上と、今なら貴重なスラッガーとして有り難い存在になっていたであろう助っ人外国人。
しかし、残した成績の割にはWikipediaも訃報もあっさりしすぎ。

5月

11日【獅子の怪童】中西太

西鉄ライオンズの黄金時代に貢献した右のスラッガーだったが、ぽっちゃり体型ながらトリプルスリーも達成するほど器用な選手でもあった。
引退後は数々の球団でコーチや監督を歴任しており、監督としては「ベンチがアホやから」事件などで微妙だった一方、打撃コーチとしては数々の選手を育て上げるなど名コーチとして知られる。

14日【ミスターフライヤーズ】毒島章一

現役時代は東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)の主力として活躍。
引退後はコーチやスカウトを歴任、特に西武のスカウト時代には根本マジックを支えていた。

30日【隠れた名コーチ】植村義信

甲子園優勝投手として鳴り物入りでプロ入りしたが、故障などを理由に26歳の若さで引退した後は投手コーチとして活躍。中には自分の経験を活かしたトレーニング法もあったほど。
ちなみに1984年には日ハムの監督を務めたが、まともに勝てなかった責任からシーズン途中で辞任してしまった。

6月

12日【フォークの神様】杉下茂

NPBで初めてフォークボールを投げた投手で、1954年には中日の日本一にエースとして貢献した。
引退後はコーチや監督を歴任し、意外なところだと阪神の監督や西武のコーチを務めたこともあった。
また、2019年までは中日の臨時コーチを務めていたが、90代になった後も背筋がしっかり伸びており「今年も元気だなぁ」と実感するのが2月の恒例行事だった。

16日【鯉の精密機械】北別府学

2度の沢村賞を獲得し、通算213勝を挙げたカープの名投手。
引退後はコーチや解説者として活躍したが、晩年は成人T細胞白血病(HTLV-1ウイルスへの母子感染などが原因で発病し、潜伏期間は50年ほど)で闘病していた。

7月

18日【奇跡のバックホーム】横田慎太郎

かつては阪神期待の若手として注目されていたが、2017年2月に脳腫瘍が発覚。
その後はリハビリを行ったものの、視力の回復が思わしくなかったことから24歳の若さで引退する。二軍での引退試合では、本塁へのノーバウンド送球で補殺し「奇跡のバックホーム」と呼ばれた。
のちにYouTubeや講演などで活躍するも、のちに脳腫瘍が再発し28歳の若さで旅立った。
↓参照記事

24日【投手でも野手でも】三浦貴

投手として入団するも、イップスや監督の勧めもあり野手に転向。
引退後は母校のコーチを務めたが、1年の闘病を経て45歳で亡くなった。

8月

22日【16歳でプロ入りした投手】古沢憲司

高校中退後の1964年に阪神入りし、16歳でプロ初登板や先発を経験したが、“世紀のトレード”で西武へ移籍。
広島での引退後は国内外で指導者として活躍し、特にカープアカデミー(ドミニカ共和国)では多くの若い選手を育て上げた。

9月

9日【執念のバックホーム】平野光泰

現役時代は「執念のバックホーム」をはじめとした闘志溢れるプレーで、近鉄初のリーグ2連覇に貢献した外野手。
引退後は野球評論家や野球教室のコーチなどで活躍した。

10月

10日【なんどでも改名】中利夫

ドラゴンズの1番打者として活躍した外野手で、監督やコーチとしてもドラゴンズ一筋だった。
ちなみに本名は利夫だが、その後は登録名を三夫(みつお)→暁生(あきお)→利夫→登志雄→利夫と改名している。

ドラゴンズワールドにあった展示より

11日【史上唯一の無捕殺三重殺】住友平

第1回ドラフトで阪急に3位指名されて入団、1967年には現在でも唯一の記録となる1人トリプルプレーを達成した。
引退後は、関西を中心に指導者や解説者としても活躍した。

11月

26日【日台を支えた名コーチ】榊原良行

現役時代は内野のユーティリティとして、引退後は日本と台湾で指導者として活躍した。
特に台湾ではCPBLを代表する選手を育てた名コーチでも知られた。
ちなみに娘は元バスケ日本代表であり、父親の身体能力を引き継いだといえる。

12月

20日【東京六大学初の完全試合達成者】渡辺泰輔

慶應大時代の1964年に六大学史上初の完全試合を達成し、鳴り物入りで南海ホークスへ入団。
しかし酷使などの影響により30歳の若さで引退した後、家業を継いで社長となった。

感想

2023年は全体的に有名人の訃報が多かったが、野球界でもドラフト制度で入団した世代が次々と鬼籍に入っており、ドラフトの歴史が長くなったことも実感した。

来年はどうなるかわからないが、願わくばあまり訃報を聞きたくないので、みんな長生きしますように。
See you next year!

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