句またがりのこととかだらだら考える

昨夜、後輩の小林通天閣さんと句またがりについてTwitterのリプライで話していたら、「(句またがりによる句と句の)溶接のメリット」は何でしょう、とたずねられました。

そもそも句またがりについて「句の溶接」ということを定義したのは小池光なので、立ち返って彼の「句の溶接技術」という評論を読み直してみました。(砂子屋書房の現代短歌文庫、『小池光歌集』に収録されています)

「句の溶接技術」で、小池はまず塚本邦雄の〈硝子屑硝子に還る火の中にひとしづくストラヴィンスキーの血〉の「ひとしづくストラ/ヴィンスキーの血」に対し、「四句から五句にかけて、「句またがり」らしきものがあるのは誰にでもわかる。」と述べます。

次に、板宮清治(1935年生、「歩道」の方)の〈さるすべり咲く残暑の日ばうばうと髪強ばりて午睡より覚む〉の「さるすべり/咲く残暑の日」に対し、「「句またがり」かどうかは知らないが、なにかまたがっている感触は否定できない。」と述べます。

これ、口語で歌を作ってる身からすると、「句またがり」って言っていいの?って感じが若干するけども、佐佐木幸綱がこの歌に対し、「句またがり」と明言した評を出しているようです。

小池が立てた仮説はこう。「さるすべり咲く」が「残暑の日」にひとかたまりで修飾するのだから、「さるすべり・咲く」の方が「咲く・残暑の日」よりも密接であり、密接な部分に句の切れ目が来ているから「句またがり」なのだと。

これはなんかイケそうな仮説だけど、小池自身によってすぐさま否定されます。その理屈だと「さるすべり/はなひらく夏」などでも構文上は同じだから句またがりになってしまうだろう、と。

で、小池は結局「「さるすべり・咲く残暑の日」は「句またがり」ではない。」と述べます。その後、ゴリゴリと句またがりの定義に入っていくのですが割愛。「6 「副句」」の項でさるすべりの話が復活します。副句の定義を引用しましょう。

二句をまたいで、五音ないし七音から成る意味上密接なひとまとまりが形成されている場合、これを「副句」という。

句をまたいで現れる五音や七音が、短歌定型の裏に別の定型感を感じさせる、みたいなことですかね。小池は高瀬一誌の〈とある日より花を吐きたる姪はたしかに狂いはじめし〉などに副句による「短歌らしさ」を感じると言います。

「8 結び」の部分で小池は、「破調=音楽的リズム的要請による、短歌らしさの破壊」であるのに対し、「句の溶接=意味的要請から来る短歌らしさの破壊」であると述べます。

小節のしきりの壁が意味性によっておびやかされ、侵犯される。これはいわば日本語を理解するものだけが感じとる不自然さである。

なるほどなあ。この文章が書かれたのは昭和56年、すなわち1981年です。短歌の口語化が進んでいくのは80年代後半のことだろうから、少し感覚が違うのかもなあ。小池光は塚本邦雄の

シェラザードならず 夕餉に紅海のかたちの腸詰をささぐるは

に対して、「詰」が「ズ・メ」と切れていることに面白さを見出しながら、「もっとも程度のはなはだしい「句またがり」の例で、これ以上強大な溶接力をもった句と句の関係は、考えられない。」と述べます。

この小池論のすばらしいところは、句またがりの程度が激しければ激しいほど、句と句の溶接は強くなる(=句の切れ目が見えなくなる)ということを述べていることです。これはよくわかる感覚で、前掲の歌を読むときに「かたちのちょうず、めをささぐるは」と一呼吸入れるような読み方になるのではなくて、一息に「かたちのちょうずめをささぐるは」と読み下すようになるということですね。これが「句の溶接」。

小池は「不自然さ」だと言うけれど、こういう句またがりはいまやわりかし定型化してきて、よく見るので読む側も慣れてきている感があります。

冒頭の後輩からの問いにもどると、「句の溶接」は、本来もつ短歌定型のリズムと、句またがりのリズムを複線的に存在させることができる、ということにメリットがあるのだろうと思います。それは一見「短歌らしさ」の破壊に見えるだろうし、実際そうなのだと思うけれど、「短歌であること」や、「短歌定型」の破壊ではないんじゃないか、と思います。むしろそれらを拡張するような行為なのでしょう。

まあ長々と書きましたけど、句またがりは楽しいです。あと評論で書こうと考えていたこと半分ぐらい小池光に書かれててビビりました。

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