日記
10/26(月)
カレーの残りを食べて、加藤純一の動画を見て妻とひとしきり笑って、いまから寝る。
角川短歌11月号と短歌研究11月号、それぞれに自分の歌集の書評が載っていた。ありがとうございます。誌面で見ると表紙の歌集っぽくなさがすごい。
少し前までは、自分の気に入らないことに本気で怒り本気で憎むことができたが、最近は、いろんなひとにそれぞれの生、感情、立場などがあることを思うと、自分だけが怒るというのは大人気ないことではあるよな、と省みてしまい、苛立ちや怒りを表現するのが難しいなとおもう。まあ、そもそも怒ることが減ってきたということもあるとおもうんだけど。
SHIROBAKOのアニメの二話を見た。進行がギリギリになっていくのを見るとつらくなる。
10/27(火)
アジカンの『ソルファ』の2016年版を聴きながら仕事へ。アジカンは小学生の物心ついたときに聴いていたので、リメイクされたのを聴くと、一曲目から懐かしくて泣きそうになる。
部品を解析してそれを資料にまとめる。応力の解析は拘束や荷重の条件設定が重要なのだけど、よくわからんのでいろんなものを試してそれで比較するということをやっていた。ちまちました作業ではあるけれど嫌いではない。資料作りは、自分の頭の中のことを他人にどのように見せるかというのをぐるぐる考えてしまうので苦手だ。日頃からやってる内容をアウトプットとしてまとめておけば楽なんだろうけど。
なにかを書こうと思っている。なにかを書こうと思っているのだが、なにかを書こうとおもいながら時間は消えていく。心奪われるアイデアも、パキッとした日常のデッサンも言葉にできんまま仕事と就寝を繰り返している。今日すこしだけ考えていたことを思い出す。
その1:僕は、人間が言葉を支配しているのだ、という一辺倒なかんじが透けてくる言葉の使い方が好きではなくて、かといって、実際は言葉によって人間が規定されていくのだ、みたいなチープな逆転の発想も好きではない。短歌をつくっていて、確かに作者の僕は短歌の言葉をコントロールするのだけれど、それと同時に、短歌の言葉によって僕が影響を受ける、更新されていく、そういうのが実感としてある。
その2:短歌定型はしばしば「器」と表現される。その器とはいま僕がウイスキーを飲んでいるこのグラスのようなものかもしれない。短歌は一首に57577という定型があるが、お酒にも1缶350mlや500ml、1合180ml、シングル、ダブルなどの「定型」がある。わたしたちは、一首一首と対峙するのとおなじように一杯一杯と対峙するのだとおもう。
このウイスキーグラスはまんなかあたりに少し細くなるくびれがあって、底のあたりは収束していくような丸い形なっている。チューリップグラスと呼ばれる先が開いたこのグラスは、香りが立ちやすいのだと聞いたことがある。このくびれや底の丸みが、少し短歌の三句目や結句の存在と被るなとおもう。もちろん、グラスにはいろいろな形状や用途があり、たまたまこういう形のグラスに短歌定型との類似性を無理矢理見つけることができるというだけの話だとおもうけれど。
その3:もう一個今日短歌のことを考えていたんだけどどうしても思い出せない。まあ、大したことではないはずなんだけれど。と書いて目を瞑ってギューっとしたら思い出せた。デジタルとアナログの話。57577という短歌定型だったり、句の切れ目というのは、言葉をシラブルによって分断するという点においてとてもデジタルなものだということ。一方で、句の切れ目を見えなくするタイプの句またがりだったり、7の枠に8とか9とかの音を詰め込んでいくことで、加速して1音が0.7音とか0.5音のように縮んでしまう字余りだったりは、そこに言葉の連続性、シームレスな感じを発生させることで、アナログっぽさを短歌に付与するのではないか。ここでいうデジタルとは0/1の世界、アナログとはその間の数が連続してある世界、くらいのものだが、そこからアナログ=なまな感じ、という意味的な連想に繋げることもできるのかもしれない。
ほんとうは、普段からこういうことをしっかりと原稿にまとめて評論に書くべきなのだけど。締切があればがんばれるから京都文フリに向けてなにか書き溜めていくのもありかもしれないなとおもう。
妻が隣でポケモンをやっている。たのしそうだ。ウイスキーを飲み干したら寝ようと思う。
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