コントロール願望
いま読んでいる本の中で出てきた言葉です。
私たちはコントロール願望を持っています。常に、どこでも、この願望を持っています。
自分自身に対しても、他人に対しても。組織、会社、集団、社会、国家などに対しても、コントロールしたい。そして、あるべき姿であり続けて欲しい。
ありとあらゆる場面で、コントロールされた状況であることを期待します。
人生計画。会社の中長期経営計画。予実管理。ほんとうに管理管理です。
一方で、管理しきれない部分もあります。人間関係を円滑にする社員の存在は、数値ではかることができません。人格的な側面は、普通の企業や組織では、管理対象とはなりません。あくまで、なにか問題が起こったときに、対処すべき側面です。
コントロール外の事態に陥っても、なお、どこまでコントロール可能か考えます。理性的活動の一環と言えます。
原発事故は、アンコントローラブルな状況で、人が理性を保ち、最もひどいメルトダウンを防ぐことができました。
しかし、コントロール、理性の力は、諸場の刃です。コントロールしようとする東電本部と現場との対立は、皆さんもご存じのとおりです。同じコントロールでもレベルや意味が異なってきます。
一般の会社でも、コントロールする上司、翻弄される部下、日常の光景です。数字をつくらないといけない。ねつ造してでも数字を生み出す。
それは、生活をコントロールするし、安定させるためでもあります。
確かに、コントロールされた生活は安定し、安心もできます。家庭は安全安心な場であるべきですし、あり続けます。
一方で、時には、コントロールを失っても、何とかしなくてはなりません。
我が身を犠牲にして、自分の命を保険金に変えて、家族を守る、なんてことは、本来あってはならないことです。
コントロールに固執すること、盲信することは危険なことです。私たち人間の知らない世界、コントロールの及ばない世界はあります。
まず、私たちは五感を超えたことを認知・認識できません。認知を超える事象、理解できない事象は、多々あります。
偶然やイノベーションは、コントロールできません。ただ、生まれやすい環境は整備できます。
コントロールという言葉は魅惑的ですが、かりにそうではない状態であっても、現実として、本当は何がおこっているのか見極める方が、大切だと感じています。
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