ものづくりの初期衝動、それだけで映画たり得るのか 【アイスと雨音 短評】
映画は日進月歩で発展していくテクノロジーに追随するかのように、表現力とそれに応える技術力とが合わさる形で進化を遂げていった。映画における表現というものが、ありふれた選択肢の中から最良なアイデアのみを選び取り、残りは削ぎ落とすような引き算の美学だとすれば、技術というのは映像に声をのせ、伴奏をのせ、編集を加えていくような、次々と加算していく積み重ねの技法だ。そうした映画の発展の歴史を鑑みるとすれば、映画をワンカットで撮りきるなどというのは、エイゼンシュテインのモンタージュ理論や、グリフィスらの功績を持ち出すまでもなく、映画史に背をむけるようなものだという批判をヒッチコックの「ロープ」が受けていたが、もはや撮影に限らず、映画を支えるテクノロジー全般が極度なまでにデジタル化が進んでいる昨今からすれば、ワンカットの美学というものは、いかにして撮るかよりも、なぜ撮るのか、という映画のテーマや主題とシンクロした考え方と結びついている。
映画に限らず舞台の演出も手がける松居大悟監督の本作は、若き役者たちが舞台に挑む姿と、その映像を全編通してワンカットで撮影したという触れ込みから、映画通の間ではアカデミー賞で作品賞を受賞した『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を想起させるという声も多いが、実際に拝見してみるに、技術的な手法を模しているだけで、描こうとしている物語の内在的なものは大きく異なってくる。
本作はそもそも松居大悟が実際に進めていた舞台企画が頓挫したという実体験をもとに物語の枠組みが作られ、そのやり切れなさと衝動に掻き立てられて制作された背景があるという。同様に映画の物語自体も、舞台を成功させるために少年少女が一喜一憂する姿を表面的に捉えたものではなく、何かものを作ろうと思った時の衝動的な感情や、そうした純粋な気持ちが一瞬にして消し去ってしまうかもしれない恐怖感、そして心の中に残る蟠りや、形にしようがない移ろいやすいものを、いかにして表現するかを描いた作品だと言えるだろう。そのためには実際の舞台というものが幕開けからカーテンコールまでノンストップで進行することを、映像で実現するための代替案としてワンカットで撮りきる手法が採用されているのも納得がいく。
舞台の稽古場スタジオにて本作の出演者や制作スタッフらの顔合わせから始まるこの物語は、公演開始までの1ヶ月間をワンカットで描くわけだが、序盤はほとんどカメラがスタジオの外に出ていくことはなく、主に役者たちがスタジオで稽古に励むシーンや休憩の合間にくつろいでいる様子をつなぎ合わせながら、特異な編集で時間の経過を表していくスタイルだ。演劇の舞台を映画のスクリーンのなかに移し入れるようなものでもなければ、演劇をめぐる芝居や舞台裏の物語を描く内幕ものというわけでもない。映画の序盤では舞台稽古の場面と、そうではない“素の状態”を描いた場面とを分かりやすくスクリーンの上下に黒縁を入れることで、画面対比を可変させ視覚的に表していたが、それがやがては演出の担い手によるオンとオフの指示の切り替えによるものではなく、劇中劇として彼等が舞台化しようとしているイギリスの劇作家Simon Stephensの「MORNING」の芝居をしている場面でのみ行われているという訳でもない。それは稽古場であるスタジオの休憩室で唐突に繰り広げられるものであり、小雨の降る街路を芝居仲間とともに歩いている場面で突如として展開されていくものだ。
演劇を題材とした多くの映画では、その舞台の場面を見せるときに、カメラは引いたポジションから全景を捉えるようなショットでわかりやすく明示する例が多いが、アイスと雨音のカメラは役者の顔に寄るクローズアップを多用したショットの連続でシーンが形成されている。バードマンではカメラがほとんど揺れることなく、手持ちのカメラだとは意識させないような見事な構図を描き出していたが、この映画では手持ちカメラ特有の手ブレを生かしながら、常に若き役者たちの表情に寄って見せることで、より彼らの緊迫とした緊張感が直に伝わってくるのが特徴だといえる。
映画と演劇の狭間で揺れていく映画自体の構造と、芝居と現実/フィクションとリアル、そうしたある種の境界線上に若者たちを立たせることで、彼ら自身がこの現実の世界で直面しているアンリアルな環境(精神と肉体の分離)とをリンクさせることに成功している作品だ。