忙しいは危険ワード!?幸せになる為の地方
「人口密度とは一人に与えられたスペースだ」という発言を聞いた。そう考えると、東京の人より南あわじの人は117倍近くスペースをもっていることとなる。また、その方は「地方にはお店がない問題」にも言及していた。都市部に住んでいる中で、一体何件のお店が必要かを洗い出してみようというのだ。その方は、「美容室、歯医者、パン屋、カフェ、本屋、マッサージ、惣菜屋」以外はなくていいらしい。逆にそれ以外の沢山のお店の影響で地価が上がり家賃が高くなるのが嫌だと言っていた。
都市部と地方について考える際にはさまざまな尺度や論争が存在するが、上記の考え方も面白いと思った。実際私も東京にいた頃に使っていた店は限られていて、さほど変わらない数のお店を現在淡路島で利用しているなと思った。
また、「人は忙しさによって中長期的な難しい問いを避ける」という文脈の本を読んだ。「自分はどんな人生を歩みたいのか」、「仕事はどのような意味があるのか」、「自分が一番幸せなライフスタイルはどのようなものなのか」等々が難しい質問の例だ。「忙しい」は心を無くすと書くという感じの成り立ちも面白い。人は忙しいという状態に助けられている側面もあるのだ。忙しいことによって、「自分は必要とされている」という自己尊厳や「忙しいから向き合いたくない本質的な事柄に時間を割く余裕がない」と思えるのだと言う。
社会人の多くは仕事に人生の多くの時間を費やしているが、その状況によって自分を保てていると言う側面があるのかと感じた。確かに忙しそうにしている限り、自分という存在を他人も自分自身も感じられる。しかし、怖いのは難しい問いを避け続けたまま終わることだ。忙しいに守られ、忙しいを求めている限りそのループから抜け出せなくなり面白くない人生になっていくように思う。この話を知った時、何人もの知り合いの顔が浮かんだ。
月並みだが、一度きりの人生自分が幸せだと思えるものにしたいと私は思っている。そのためには難しい問いと向き合い決断することは不可欠だ。都市部で暮らすにせよ、地方に移るにせよ幸せになれるかは決断後の自分次第だ。ただ大前提として「自分と向き合った後、決断した道」の上を歩く必要があると思う。
地方での挑戦のいいところは生活コストがかからないことだ。一人に与えられるスペースが大きいため何かと安い。生活コストがかからない分マストで稼がなければ行けない生活費が下がる。すると、週5日朝から晩まで働かなくても時間が生まれるのだ。そして、時間が生まれると難しいといにも向き合えるようになる。
淡路島で出会った移住者のライフスタイルは実にシンプルだ。
マストの費用を稼ぐ仕事とやりたい事で稼ぐための準備を両輪で行う
→少しづつやりたい事の分量を増やす→最終的にやりたいことだけになる
20代でも難しい問いと向き合って挑戦している人は意外と多くいるのだ。
「幸せ」を人生の目的に据えるなら、難しい問いとの向き会うことが大切だ。そのために、地方に移り時間を浮かすことも選択肢の一つだと思う。フリーランスで稼げるようになったら地方に行きたいという声を聞くが、むしろ逆だ。忙しい仕事の隙間時間より、地方での生活確保の方が時間がかからないケースが多いからだ。幸せの準備をする場所という位置付けの地方もかなりありなのだ。