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忘れられる夜と私
「たぶんこれ、終電間に合わないな」
六本木の名前のわからない大通りをタラタラと歩きながら、私はそんなことを考えていた。そう思うなら、一緒に歩いている人にひとこと言って走ればいいのに、私はなぜかそれができない。昔からそうだ。たぶん私は、自分がいなくなった後も話題が続く、というのがいやなのだと思う。私が知る由もないところで、私が途中まで楽しんでいた会話が変化していくこと。それは不快ではなく、まるで乗っていた船が、私を孤島へ取り残して遠い沖へ離れていくような寂しさに近いのかもしれない。私がいなくなったあとにも会話は続くし、私が死んで、誰からも忘れられた後にも世界は続く。困る。そんなことを考えていたら、やはり駅に着いたときには、終電は六本木の夜から逃げていた。
今日は実家のほうに戻ると連絡してしまった。最寄り駅までは無理でも、横浜駅まではなんとか帰れるだろう。日比谷線に乗って中目黒まで行き、そこから人が詰め込まれた横浜駅行きの各停に身体を押し込む。ドアが閉まるのを待ちながらホームの電光掲示板を眺めていると、すぐ後ろから「すいません」と声がした。私に話しかけているのかどうか確かめる間もなく、緩んだ滑舌のその声は「ここどこですか」と言葉を続けた。忘年会シーズンの終電、全くの素面なんてここにはいないのではないかと思うほど酒臭い。とっさに返事を返そうとしたら、酔った声につられて、こちらも「中目だよー」と、かなり砕けた返事になってしまった。
「なかめー。なかめって、横浜方面」
「横浜方面」
「じゃああってますかね」
「え、どこ行きたいの」
「むさこ、武蔵小杉にいきたい」
「あってる。でも、次の快速のほうに乗ったほうが良いよ」
「あ、そうなんですか。あーでも、これでいいや」
いいのかよ、と思うのと同時にドアが閉まり、電車は走り出した。私より少し背が低く、私より年下に見えるその男は、それからも時々、ようすをうかがうようにこちらに話しかけてきた。彼は私にナンパをしているのか、それとも酔っているせいで見境なく人懐こくなってしまっているだけなのか。どちらにせよ、今は私になにかしらの返事をしてほしいようだった。窓の外に目を向けたまま、というか、すし詰め状態の車内でほとんど顔面を窓に押し付けられながら、私は曖昧な返事をした。
「やっぱりね、こんな飲み会、するもんじゃないですよ、ね」
「まぁ、いいんじゃないですか、若いうちだし」
「お姉さん、何歳なんですか」
「28」
「28かぁ、28…おれ25です。やっぱガキっすよね、25は」
「そうだね」
「おいー」
「はは」
電車は律儀にひとつひとつの駅に止まって、そのたびに何人かの人がまばらに降りていった。きっと少し遠くの乗客には、私たちは飲み会帰りの友人同士に見えているだろう。ここにいる全員と同じように、名前も知らない他人同士だというのに、私と彼のあいだには、早くも軽口をたたき合う緩んだ空気が流れている。酔っ払いは嫌いじゃない。彼らは多少冷たくしても気にしないでいてくれるし、なにより、見るからに一癖ありそうな私に気を遣う素振りがない。
「俺いま悩んでるんですけど、聞いてもらっていいすか、悩み」
「いいよ」
電車がガタンと大きく揺れて、私はとっさに倒れそうになった彼の腕を掴んで、自分のほうにグイと引き寄せた。
「俺、10年付き合ってる彼女いるんですけど、いつ結婚しようかって悩んでて、どうしたらいいですか、俺」
「結婚したらいいじゃん、そんな長く付き合ってんなら」
「いやでも俺、仕事が、いつ安定するかわかんなくて」
「仕事なにしてんの」
「野球」
私は野球のことについては全くわからないが、どうやら聞く限り、彼は野球をすることを職業としていて、今のところ同世代のサラリーマンよりはいくらか多く稼げているらしい。それでもやはり厳しい世界で、そろそろ引退後の進路についても考えていかなければならず、その先の生活の見通しがいまだついていない、ということだった。
「みんな一軍にいったのに、俺はだめだった」と彼は言った。その若さで第二の人生について考えなければならないなんて、私には想像のつかないことだ。好きで続けていたことが、いつの間にか結果を出し続けなければ続けられなくなる。自分で潮時を決めなければ、他人に決められる。どこの世界も多かれ少なかれそうなのかもしれないけれど、肉体を使う仕事はとくに残酷だ。どうすればいいかなんて私にはわからないが、幸い相手はへべれけ。適当なことを言ったとしても、明日には私の顔も憶えていないだろう。
「いま稼いでんでしょ。じゃあ今だよ。結婚しちゃえよ。」
「やっぱそうですかね。いやぁ、最近デートとかもしてないんすよ。お姉さんデートでいちばん楽しかったのってどこですか」
「えー、べつに場所はどこでもいいよ。誰と行くかだから、そんな憶えてないよ」
「そんなことないでしょ、ディズニーとか」
「あー、ディズニー好きだよ」
「俺とディズニー行きましょうよ」
「なんでお前とディズニー行くんだよ」
笑いながらそう言ったら、笑いながら肩パンされた。野球選手の肩パンは結構痛い。
「彼女と行けよ、私後ろからふたりのこと見といてあげるから」
「お姉さんは、結婚するならどんな人が良いんですか」
「もう、あれだよ、嫌なことしない人」
「なんだそれー、もっとあるでしょー」
「難しいのよ、嫌なことしないって、それがいちばん。あと3年したらわかるって」
「そんなもんかー」
「そうそう」
次は武蔵小杉、とアナウンスが流れて、私は「ほれ、次だよ」と彼に言った。彼は床に置いた大きな荷物を持ち直しながら「あざした、プロポーズします俺。また会ったら声かけていいですか」と言った。「明日になったら私のことなんて忘れてるよ」と返すと、彼は目を細めて「確かに」と言った。私も彼の顔を忘れるだろう。彼が右手を差し出し、私もそれに応じて握手をした。
ドアが開くと同時にたくさんの人が武蔵小杉へ降りていく。人ごみの中、彼の姿はすぐどこかへ紛れて見えなくなった。たぶん、もう会うことはない。私は、彼の人生の続きを知ることはできない。私の存在しない場所で、彼の世界は続いていく。それを知る術はなく、友人と別れるように寂しくもなかった。寂しさとは、再び巡り合えると信じることなのかもしれないと思う。もう会うことはない、だから寂しくもない。私は孤島に取り残されるのではなく、また別の船で旅に出るのだ。せいぜいお互い元気にやろう。ただ、そう思う。
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