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わたしはわたし
恋人と手を繋ぐ。指を絡ませ、頬に寄せた自分の手の黒さに、私はまた驚く。28年、そんなことを繰り返しながら生きてきた。「28年も生きれば。いい加減“あたりまえののこと”だと受け入れられるだろう」と、ちいさい頃の私は思っていたかもしれない。でも、その時はまだ訪れない。
ときどき実体を掴んだような気になっても、私の肌は、天気や湿度の変化にしたがってに透き通るようなサンドベージュになったかとおもえば、こんどはみすぼらしい枯れ木の色に揺れ、昨日まで似合っていたマニキュアが、今日はひどく濁って見える。この国に住む大半の人間と違う、昨日の自分とも違う自分。私は未だに自分がわからない。
いつも見ているドラマや映画に、自分と同じような容姿の人が出てくることはほとんどない。けれど、私はべつにそこに不満を持っているというわけでもない。むしろ、それが不自然だとか、多様性の時代にそぐわないとか、私がそういうことに気づいたのは、価値観の最前線からかなり遅れをとってのことだったようにすら思う。映画のなかに自分みたいな人が出ていなくても、べつになにも気にならなかった。みんなと同じように笑ったり涙を流したりして、「おもしろかったねー」と雑な感想を述べる。
ときどき「外国人」として登場する自分に似ている誰かを、私は周りと同じように「外国人」と認識し、まるで他人事のように見ていた。
それが自分にも関係のあることだと気づいたのは、演技の世界に憧れを抱いた頃だった。私はそこではじめて、自分が物語の世界において「外国人」側の人間であることを知った。不思議な話だが、私は、実生活では毎日人との違いを噛みしめていたはずであるのに、なぜか物語のなかでは、自分が「普通の人」としてすんなり受け入れられると考えているようなところがあった。
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【note連載】言葉 ※終了しました
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