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くさい

去年の誕生日、ハンドクリームを頂いた。「ヒノキの香り」と書いてあって、つけてみると、まるでスケベなくせにストイックを装い、生成り色のセットアップを着て丸眼鏡をかけている都会の男のような匂いがした。そういう男の家にはたぶん無印用品の歯ブラシ立てがあるし、おそらくバルミューダのポットもある。ゴチャゴチャ言ってしまったが、私はこのお香のような香りがかなり好きだ。ブランドの服やアクセサリーみたいに「思い切って買う」というほどの値段ではないが、ハンドクリームにしては少し贅沢な品。こういう香りを纏わせているだけで、都会では「余裕のある人」のフリをすることができる。こういう絶妙なプレゼントはありがたい。飲食店のアルバイトがない日に、少しずつ手に取って大切に使うことにした。

夜、冬のホームで電車を待っているとき、ふと自分の手を見ると枯れ木のように乾燥していた。褐色の肌にとって“乾燥”というものは大敵である。白い肌ではそれほど目立たないようなカサカサと粉を吹く箇所が、異様に目立ってひどくみすぼらしい。私はひとりで握手をするようにその手を覆い隠したが、しばらくして、自分があのハンドクリームを持っていることを思い出した。少し多くとってしまったハンドクリームを腕や首まであちこち塗り広げると、ヒノキの香りに包まれて心が安らいだ。駅に到着した電車はガラガラで、私は焦らず端の席に腰かける。

ふたつほど駅に止まり、大きな町の駅に着く。若い男がふたりで乗ってきた。ふたりはおそらく私よりも若く、髪色や服装も派手だった。大声で話しているのは果たして酔っているからなのか、それとも、もともとそういう話し方なのか、顔色がわかるほどまじまじとは見ていなかったのでわからない。ふたりは私の隣に座り、しばらく騒がしい会話を続けていたが、突然、そのうちひとりが一層大きな声で「てか、お前香水くせぇよ!」と叫んだ。

彼は私に向かって怒鳴ったというわけではなく、友人に向かってそう言ったのだが、私はこの時点で、彼が反応しているのは香水の匂いなどではなく、私のハンドクリームであると察した。この若者たちからは香水の匂いなんてしないし、私自身も、つけすぎたハンドクリームが主張激しくにおっていることに気がついていた。私は内心急に回答を求められた学生のように取り乱したが、かといって「すいません、くさいの私です」と出頭する訳にもいかず、またひとりで握手をするようにしっとりとした手を覆い隠して縮こまった。なんとかうやむやになってほしいと願ったが、ふたりの会話は無情にも続く。

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「もっと知りたい。こんなとき、貴方になんと伝えようか。もっと聞きたい。貴方はなんて言ってくれるの。」 月2回更新します。

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