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378-379 死とつながる暮らしを生きる

378. 死とつながる暮らしを生きる

パソコンを開け、来ている連絡を確認しているうちに空が明るくなってきた。短い間に開かれたウィンドウを一つ一つ閉じる。灰色の雲は、西から東へ、昨晩見たオレンジ色の空に広がる雲と同じように駆け足で空を撫でていく。雲の切れ間から天色(あまいろ)の空が顔を出す。

今朝は6時過ぎに目が覚めた。昨晩、早めに眠りにつくことができそうだと目を閉じたものの、しばらくして、1階にある共同の玄関が開き、ガタガタを人が階段を昇る音が聞こえてきた。上の階に住むアナさんは昨日から引越しのための荷物の運び出しの作業を行なっている。今日もたくさんの荷物が玄関付近に置かれていた。どうやら全ての荷物を自分で運び出しているようだ。そういえば、オランダに引越し業者というのはあるのだろうか。

日本だと、春先や夏休みの終わりに引越し業者の車をよく見かける。オランダにもなくはないのだろうけれど、できることは自分で行うオランダ人の気質や慣習から言うと、おそらく、知り合いの手を借りながら自分で荷物を運ぶという人が多いように想像する。先日訪れた楽器屋さんで中古の美しいピアノが売られているのを見たときも、「自分で運べば運送代分の500ユーロが安くなる」と店の人が言っていた。「ピアノを自分で運ぶ」という発想は全くなかったが、こと、特別な感じではなく話す話ぶりから、そうする人が多くいることを感じた。

「何かあったら手伝ってくれる人がいる」「手伝って欲しいと自ら声をかける」「相手が必要としているときには手を貸す」というのはやはりオランダの人の気質であり慣習であり、そういった他者とのネットワークを作るのが上手なことがオランダの人の強みと言ってもいいだろう。限られた資源と労働力の中では、「自分たちで助け合う」ということをせざるを得なかったのかもしれない。

オランダでは在宅医療も盛んだ。「ビュートゾルフ」という在宅ケアの会社はティール組織の本で紹介されたが、オランダは欧州の中で病院死の割合が最も低い国でもある。それだけ病床が限られているとも言えるし、病院と同じケアを在宅でも受けることができるとも言える。こう書いている間に、医療のことが頭を回り出した。

「在宅医療」というのは、最近個人的に興味が出てきた分野だ。クライアントさんに医療関係の方が多く、医療の話に触れる機会が多いこと、唯一定期的にチェックしている日本のメディア(と言っていいのか?)である「ほぼ日」の中で、森鴎外の孫であり在宅医療に携わっている小堀鴎一郎さんの「いつか来る死を考える。」というインタビューを最近読んだことは大きいだろう。

「医療」と言うと、健康なときには関係ない気がするが、結局のところ医療の目的は「健康に生きる」ということなのだと思う。「健康に」というのは曖昧だが、決して、ある数値や基準に則って、身体の機能が発揮されているというだけが健康ではない。一人一人性格が違うように、身体に心にも多くの違いがあって、自分自身の発揮しうる状態を発揮し、その中でその人らしい喜びや、在り方をしながら生きることが健康なのではないかと思っている。そういう意味でオランダの在宅医療は生きること・生活することに密接に関わっているだろうと想像する。

生きることは、死ぬことなのだ。死ぬことは、生きることだ。オランダの医療の実態はまだ体感覚として分からないことばかりだが、仮にこの国で死が生活の延長にあるとすると、この国で年老い、死を迎えたいと思う。

オランダにいながら、日本の医療者の方々と関わりがあることは何か意味のような、使命のようなものがある気がしてきた。

少し前に雨が強まったが、今は雨が上がり。空に広がる雲の切れ間も大きくなってきた。雲の東側が明るく光っている。今日という1日が輝き始めた。2019.9.27 Fri 7:57 Den Haag

379. 感じて、言葉にして、今日を知る

寝室の机で日記を書き始めようと思ったが、気を取り直し、寝室の隣の小さな書斎に入り机に向かった。昨日、書斎の暖房も入れたが、ここは他の部屋よりも随分と冷えている。他の部屋の上には上の階の部屋があるが、ここだけは上がバルコニーになっており、部屋の外壁が外気に直接触れる面積が広いからだろうか。向かいの家のリビングの明かりの手前に浮かび上がった木の枝の先の葉っぱの影がゆらゆらと揺れている。今日は深夜のセッションがあるため、このあとの時間はほどよく思考と身体を休めて過ごしたい。書斎の棚を見回すと、読みたい本はたくさんある。その中のほとんどは既に読んだことがある本だが、読むたびに違う発見があるということを体験として知っている。何度でも読み返したいと思う本が書棚を占めているのは何とも幸せなことだ。

目を閉じると、サーサーと風の音が聞こえてくる。そういえば今日は夕方前に一度、オーガニックスーパーに買い物に行ったのだった。そのときにまた、これまで見たことのない野菜に出会った。何と表現すればいいのだろうか、怪獣みたいなカブ。オランダのスーパーで見かける日本にはない野菜のうちいくつかは、私にとっては「怪獣みたい」に見える。ゴツゴツしていたり尖っていたり。それをなぜだか私は見たこともない「怪獣」で表現する。ほんとうは「かいじゅう」を「ひょうげんする」と書きたい。怪獣も表現も、まだそれがどんなものなのか、分からないことばかりだ。パソコンで変換すればどんな漢字もあっという間に出てくるが、そのほとんどの意味を私はまだ知らない。

今日はセッションの合間に、以前執筆した日記を編集した。ちょうど1ヶ月ほど前に書いていた日記だ。その中に、今興味を持っているクリスタルボウルについて、なぜ興味を持ったかということが書かれていた。感じたことは、言葉にしたとしてもあっという間に遠ざかっていく。点と点を結ぶ物語は常に再編集される。そのどれもが真実であり、そのどれもが真実ではないけれど、そのとき自分が感じたことを言葉にしておいて良かったと感じた。日記を書かずに毎日を過ごしていたら、1日1日がかけがえのない時間であることを知らないまま人生を終えていたかもしれないと思うくらいだ。

日記のほとんどは、書いているときに意識がハッキリしているのだが、ときたまその中に、「誰が書いているのか分からない」ときがある。後からそう思うのではなく、パソコンの画面に表示される文字が、誰の感覚を通して書かれたものなのかその瞬間にも分からないのだ。一体、何を書いているのだろうと思う意識がある中で、指が勝手に動いていく。不思議なことにそれは、後で読み返すと「自分が感じたことだ」と思う。しかしそもそもどうやってそれを「自分が感じた」と分かるのだろうか。今こうして書いている自分を見ている自分が現れてきた。あんなに頭を締め付けていた頭痛はもうない。感覚はようやく、元気を取り戻したようだ。2019.9.27 Fri 20:52 Den Haag

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