「コーチングと私」 −壮大な問いの旅−
0. 旅のはじまり
約2ヶ月前に私のコーチからいくつかの問いをもらった。
結果として、壮大な旅になった。まだその旅は完了していない。
これからずっと旅を続けることになるだろう。
今この瞬間に見えている景色としてここに残しておくことにする。
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私のコーチングと私自身について言語化するということをこの2ヶ月間の暗黙のテーマとしてきた。明確にそれについて考えていた時間もあれば、そうでない時間もある。この間、新たに学んだこと、経験したこともたくさんある。私という存在は動的であり常に未完であるものの、現時点での実情と認識をまとめていきたい。
1. 私のコーチングの機能
2. コーチングにおける私の在り方
3. 私のコーチングはどんな領域・どんな次元に関わっているか
4. 私は何者なのか・社会にどう関わっていくのか
について考えていく。
1. 私のコーチングの機能
まず現在私が提供しているコーチングの機能を考えるにあたって、クライアントに何が起きているかを思い返してみる。クライアントの内的な変化の中で本人が自覚しやすいものとしては
・現在(ものごと・他者・自分自身や感情)への認識(意味付け)の変化
・過去への認識や記憶の変化
・未来への認識の変化
・認識の変化に伴う感情の変化
などが挙げられる。
これらはクライアントの発言やコーチングに関する振り返りから読み取ることができる。
さらにはその根本にある
・認知(意味付けのプロセス)の変化
・自分という存在そのものに対する認識の変化
・感情が発露するプロセスの変化
・認知における時間操作の範囲の変化(どのくらいの時間軸で認知をするか)
・言葉に対する感度や扱い方の変化
などが起こっているということを想像する。(これらには本人の自覚がない場合もある)
外側に起こることとしては
・行動やコミュニケーションの変化
・人間関係の変化
・成果や結果の変化
などがあるが、これらは内的な変化に伴って起こるものだと考えられる。
これらが起こるメカニズムについて考えてみる。
ナレッジマネジメントの考え方の一つにSECIモデルというものがある。経験を通じて集団に共有されている暗黙知を表出させ、個の実践知とし、それを結合させ集合知・形式知にし、さらにそれをまた集団に落とし込み、身体化し、そこからさらに暗黙知が生成されるというプロセスを繰り返すことにより、個と共同体が成長し、全体性を得ていくという考え方だ。私のコーチングではこれの逆回しのようなことを行なっているのだと考えられる。
「どうやって」という方法論は脇に置くと、まず、クライアントが今行なっていることが暗黙知からどのように変換され、表出しているのかを明らかにする。変換のされ方が明らかになったら、それを検証したり、再選択したりすることができる。これをバイアスブレイクと呼ぶ場合もある。バイアスブレイクが起こっているということにはクライアントは自覚がない場合もある。バイアスブレイクが起こると体験から学習し、暗黙知化しているものに違う意味付けを与えたり、手放したりすることができる。これはアンラーニングと呼ばれるものだろう。そして意味付けをしている体験がどのような認知から生成されているのか、その生成のプロセスを紐解く。これはリバースエンジニアリングに近いかもしれない。さらにそのプロセスがどうやって機能しているかを明らかにする。明らかになればまた、再構成したり、意識的な選択をすることができる。そこから新たな体験が生まれる。これはSECIモデルで「集合」としているものを、一旦、「個としての体験の集合」に置き換えているが、これをさらに、人の集団としての集合に置き換え直すこともできるだろう。セッションで話すテーマはそのときそのときクライアントが持ち込むものだが、どんなテーマでもここにある矢印のいずれかを結果として起こっていることが多い。
SECIモデルで示されている「体験として知覚しているものから学習し自分なりの暗黙知を作りそれを実践し、それらを集め体験として内に取り込んでいく」という一連の流れを逆回しにするとともに、一つ一つの状態を繋ぐプロセスの質自体を更新していくというのが私が関わっていることだ。自分自身や業界の常識を覆そうをするとき、無意識が意識に変わり意識が無意識に変わるその間にあるプロセス自体を更新していくことが有効なのだと思う。
こうやって書くと人が何かとてもシステム的なものに思えてくるが、このプロセスを通じて人は、自分という存在そのものに対する信頼が強くなることを実感している。プロセスだけを見ると、壊したり再構成したり、何か今の自分とは全く違うものになっていくようにも見えるが、実はこれは自分自身の本来の姿を取り戻すことなのだと思う。それは本来持っている力を発揮することにつながり、何より自分との信頼関係を取り戻すプロセスだと言える。
なぜ自分との信頼関係を取り戻すのかは、「どうやって」という方法の部分にあるだろう。私は現在、ナラティブと呼ばれる、「人は物語りによって物語を生み出し、物語から物語りを生み出す」という考え方を採用し活用している。人が自分の物語を語っていくと、だんだんと普段は脇に追いやられていた物語、見て見ぬふりをしていた物語、しまい込んでいた物語までも語り始める。そうして自分の物語を話し尽くしたと思ったときに、その外側にあるものについて物語りを始める。それはその人全体についての物語でもある。このプロセスで気づきと呼ばれるものが起こるが、同じことを人に教えられたり、指摘されたり、質問で意図的にスポットを当てられるのとは違い、それが「自分自身の生きる物語に含まれていたもの」もしくは「その裏側にあったもの」として認知されるため「自分自身の大切なところと繋がった」という感覚が大きく、それが自己信頼に繋がるのだと考えられる。
テレビ会議など、通信回線によって映像を動画として送信する場合、送信するデータの容量を抑えるために色情報や解像度を間引きして送信したり、変化のない部分の情報を間引きしたり、逆に変化する部分の動きを予測して映像を作るという技術が用いられているという。私はその「送信途中に間引きされた部分」や「予測して作られた部分」の、元の状態を復元することを行なっているように思う。それは、その瞬間だけ切り取って行うのではなくその人の持つ間引きや予測作成のパターンのようなフィルターを見つけた上で、そのフィルターがかかる前の状態を想像し伝えるという関わりによって行われる。
これらのプロセスによって、クライアントは、現在の標準化・平準化・記号化された世界の中で自分自身の物語を取り戻していくことになるのだと考えている。それによって、今度は他者の物語と物語りにも耳を傾けるようになる場合も多い。これは、自分の物語を語るとことが充足されたからだろうか。自身が使う言葉に対する感度と使い方にも変化が起こる。それがコミュニケーションの質や人間関係、仕事の成果などの変化を起こしていくのだろう。
コーチングの機能として大きくまとめると
・意識もしくは無意識で物事に意味を付与し行動にしていく「プロセスの質」を変化させる
・自分自身の物語を取り戻し、新しい物語りをつくり、それを生きることを後押しする
(外的変化もここに含まれる)
・自分自身や組織・業界の持つ常や価値基準を更新する
ということになる。
2.コーチングにおける私の在り方
では、この機能を持つコーチングを提供する私はどのような在り方をしているのか。
コーチングセッションの時間について言うと、「一人の人間としてそこにいる」という言葉が浮かぶ。評価者ではなく、アドバイザーではなく、解決者ではなく、自分を満たすためではなく。何かを「する」目的があるとすれば、「相手が物語を物語ることを聞き届ける」ことだ。これまで他の誰も聞いていない、これから他の誰も聞かないかもしれない物語のただ一人の聞き手だとしても、そこに自分が人間として存在して耳を澄ませ、聴こえてきたことを伝え返す。
聞き手でもあるが、増幅器や投影器のようなものでもある。言葉にならないものとそれが生み出されるその人自身の物語の小さな振動を捕まえ、それを映像として観て、観えているものを伝える。それによって、相手は、自分の中にあったが未だ気づいていなかった物語に出会うことになる。そこからまた新たな物語りが始まる。そのプロセスにおいて私は「無知」でそこにいる。クライアントが使う言葉の意味やその背景・想い・そのさらなる出所について、何も知らず、ただ知りたいと思っている。
「在り方」と言っていいのかは分からないが、最近私は、脳波がα波もしくはθ波に近い状態でコーチングを行なっているのではないかという仮説を持っている。ミッドアルファ波と呼ばれる10Hz前後の状態で左右の脳がシンクロして共鳴しているときは本来持っている能力を発揮しやすいという考え方があるようだが、そうなのだろうということを体感覚的に実感している。さらに、α波とθ波の中間の脳波でありシューマン共振波と呼ばれる7.8Hzの状態のときは念力などの能力が発揮されやすいという説もあるそうだが、それに近い状態にあることもあるように思う。現在の生活は、ヨガや瞑想、そして暮らしのリズム全体からα波が出やすい状態になっているように思う。興味深いのは、脳波は他人の脳波に共振を起こすという考え方があることだ。自分が脳波がα波の状態でいることによって、クライアントの脳波もα波の状態になっているという可能性がある。その結果、クライアントには気づきと呼ばれるものが起こりやすくなり、本来持っている力を発揮しやすくもなる。これもコーチングの機能の一つと言ってもいいかもしれない。
「一人の人間としてそこにいる」ということは、様々な感情とともにそこにいるということでもある。人間なので色々なことを感じるし考える。「頭の中の勝手なお喋りがなく思い込みなく聴く」という姿勢を目指しているものの、100%そうかというとそうではない。ただ、それに対して自覚的になり、何か感じたこと、浮かんできたことの出所まで捉え、それをそのままに伝えるということを行なっている。「相手のこと」ではなく、「自分のこと」として、感じたこと、起こっていることを伝える。「心と言葉と声と行いを一致させそこにいようとする」というのが私の姿勢であり在り方である。相手にとってはそれが「人との出会い」になるだろう。それは「機能」として期待されていることではないかもしれないが、実は人の心が何より求めていることではないかとも思っている。
私は、人の生きる物語と物語りそのものを聴き届ける人として、その物語りの中で出会う人としてそこにいる。
3. 私のコーチングはどんな領域や次元に関わっているか
これについては、領域と次元についての自分の認識を確認する必要がある。領域というのは、「ジャンル」のようなもの、インテグラル理論の言葉を借りると「ライン」(能力領域)のようなものを想像する。次元というのは同じくインテグラル理論であてはめると「レベル」のようなもの、もしくは四象限(個人の内面・個人の外面・集団の内面・集団の外面)のどこに位置するかということをイメージする。一旦はそこに当てはめて考えを進めていくことにする。領域(ライン)は紐解けば様々な種類があるが、『インテグラル・スピリチュアリティ』を参考にすると、記載されている10の領域(認識・自己・価値・倫理・人間関係・スピリチュアル・欲求・運動・感情・美学)全てに関わっているようにも思う。
これを、以前自分なりにまとめた人の認知や行動についての整理の図(参考:なぜ言葉は思ったように伝わらないのか −言葉や行動の生まれる仕組みとコミュニケーション−)にあてはめると、人の言葉や表情・行動に関連が近いのが「運動」、その土台にあるのが「感情」、さらにはその土台にあるのが「欲求」や「美学」「人間関係」「認識」であり、さらにその土台にあるのが「価値」や「倫理」、一番おおもととなっているのが「スピリチュアル」であり「自己」だという風に当てはめられる。以前整理をしたときはラインについての自覚的な認識はなかったが、これまでの経験や学びから無意識にラインのカテゴリーを照らし合わせてもいたのかもしれない。全ての領域に関わっていると言ってしまえばそれまでだが、あえてどこの領域に特に関わるかというと、認識・価値・自己の3つだろう。しかしこれらは単独で概念的に扱うことはない。実際の体験や感情からそこに辿り着いていく。図に振った①から⑦の矢印をスムーズに追うためには上下を逆に並べた方がいいのだが、普段実際に表出しているものが言葉や表情・行動であるためそれが上になるように並べている。体感覚としては、深い井戸の底に降りていくような感じだ。
インテグラル理論を当てはめた四象限というのも、領域に近いように思えてきたので、それについて続けると、先日作成した別の図を参考にすることができる。
ここで言うと、上側の個の領域を、その人が自分で選択可能なものとして私はコーチングで扱っている。大きく言うと、集団には、文化や世界観、そして社会制度や環境といったさらに大きな領域がある。オランダにいるからこそ見えてくるものがあるとするとこの部分だろう。ここについては直接的には言及はしないが、日本という社会の持つ文化や世界観・社会制度や環境を前提にした考え方を当たり前のものとせず、「なぜそう思うのか」について「無知」で聴くということを行なっている。また、レベルという点で見ると、特に私は言葉の意味がその人の中でどのように生成されているかということに注意を向けている。それがただ単に体を通ってきたものなのか、心を通ってきたものなのか、魂のようなものを通ってきたものなのかを聴き(感じ)、より深いところに直接関わろうとしているように思う。現在、セッションの前には枕草子を祝詞のように詠んでいるが、それは私自身が言葉の持つ表面的な意味世界ではなく、魂やスピリットを通した振動としての音と一体になり、そのレベルでクライアントと関わるためだと認識している。ここで言う魂とは、親や先祖など血を通して与えられたもの、スピリットとは、もっと大きな宇宙のようなところから与えられたものをイメージしている。今のところ、他者のスピリットと交信したという実感はないが、魂に近いレベルで関わっているのではないかと感じることはある。
4.私は何者なのか
すでに壮大な旅をしてきた気分だが、ここまでのことを踏まえ、私は何者なのかということを考えてみる。
思い浮かぶ部分・性質・要素を並べてみる。まず私は、波・揺れ・共振体のようなものだ。他者の微細な揺れを感じ、それを増幅させるが、自分自身にも揺れがある。言葉(音)を通してのみやりとりしているので実際にそうなのだろう。物理学上は二つ以上の波を重ね合わせると合成波と呼ばれる新たな一つの波ができると考えられているが、私はクライアントの声を通して感じる、様々なものが折り重なった合成波から、経験の中で作られた思い込みや社会的・文化的慣習等を取り除いて、元々その人が固有に持っている波を見つけることに携わっているように思えてきた。物理学的にも、合成した波は再び分解することができるとされている。ただ、音を聞いて直接それを行うわけではない。言葉や音は景色になる、そして映像になる。音という二次元のものが面になり、それに色が付き、そこに動きが加わり、時間が流れる。数学的には次元が増えるほどにその問題を解くための計算は指数関数的に大きく困難になるとされているが、色が付き、動きが加わることによって、そこにあるユニークな係数のようなものが捉えやすくなるように思う。受け取っているのは、言ってしまえば振動という最大4次元のものなのだが、それをさらに高次元に変換する機能を私は備えているのかもしれない。とすると私は何者なのかという問いに戻ることにする。
ある人の言葉の意味がどのような物語りから生成されているのかを聴く。
物語の端まで行き着き、そしてそこから新たに物語りを始めるのを見届ける。
ただ、見ているだけではなく、私自身がその物語の中に存在する人としてそこにいる。
そう考えると、私という存在は色々な人の物語の中にいることになる。おそらくそれぞれの物語の中にいる私はそれぞれに違うだろう。それを語っている人が違うのだから。
しかし、「物語を聴く人」というのは普遍なのかもしれない。
他者から見た私は恐らくそうだろう。
相手にとっては「自分という存在が生み出す言葉から、自分という存在そのものの物語を聴き届ける人」であり、生きた私が、伝わってきた物語を伝え返すことにより、相手は自分がそこに生きていることを確認できるのかもしれない。「生きていることを教えてくれる存在」というと、少しおこがましい気もするが、そうなのかもしれない。
だとすると、私にとって私とは何者なのか。
様々な人の中に、物語を聴き届ける人として、その生を見届ける人として存在する私。それは真であるけれど、今この瞬間にここにいる私は、私が認知している私であり、他者が認知している私ではない。今この瞬間にここにいる私は何者なのか。
今ここにいる私は、自分という物語を必死に紐解こうとする私。物語りを続ける私。
今この瞬間に生まれる自己と世界を見届けようとする私。
それは何者なのか。やはりそれは、たくさんの波の合成であり、その中に小さな、生まれながらに宇宙から与えられた振動を持っている存在。宇宙から降ってきた一つの振動に、有機的・物理学的な要素が加わり、人間の形をして、絶えず細胞と意識の生き死にを繰り返している存在であり、その要素を結びつけて動かしているのは様々な人の愛なのだろう。基本的には与えられたもの、変わりゆくものでできているが、その中に何か変わらないユニークなものがあるとすると、それが固有の振動であり、それも辿ると宇宙から降ってきたものなのだと思う。これ以上分解しきれない単位であり、全体でもあるもの。宇宙とともに生まれた振動が、私という存在なのかもしれないと思うと自分が限りなく小さいものにも、永遠に広がるものにも思えてくる。
そんな私は社会とどう関わっていくのか。
出会った人の振動を受け取り、自分自身の持つ振動を重ね合わせ、そこから景色や物語りを見て、さらにその人が持つ固有の波と物語を一緒に詠み解いていく。そして新たな物語りを聴き届ける。一生の間にそうやって出会える人の数は限られているだろう。社会に何か大きな影響を与えるということはないかもしれない。それでも、だからこそ、私は一人一人の物語に出会い、物語りを聴き続けていく。人間がシステム化する中でとりこぼされていく一人一人の物語を掬い上げ祝福するように人と社会と関わり続けていければと今は思っている。2019.8.1 Den Haag